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中田英寿さんがハンス・コパー展へ

東京の汐留ミュージアムでは最後の2日間は開館以来始めてと
いう入場制限をしたほど多くの方が見に来られた。

その後ハンス・コパー展は東京の汐留ミュージアムから
岐阜県現代陶芸美術館へ巡回し、その岐阜会場も
残すところ3週間あまりとなった。

岐阜でもコパー展は好評のうちに進んでいるという。
オープン前夜には元サッカー選手の中田英寿さんが
見に来られた。沖縄から今年はずっと日本の工芸を
テーマにまわっているとのことで、館長と学芸の方が
会場を案内しておられた。

美術館を含む複合施設であるセラミックパークMINOの
建築は磯崎新の設計で美術館展示室は、吊り免震構造で
世界初となる「並進振子免震システム」を採用しているという。

ここの美術館ではヨークシャーの学校から借用している
ディスクの壁が特別な位置に設置されている。
全6会場のうち、唯一ディスク壁が大きなガラスを通して外に
面しているのだ。

ディスク作品の向こうに輝く緑の木々が見える。
自然光の中で見るディスクはきっとコパーが学校に設置した
時と同じ表情をしているのだろう。

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