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Showing posts from 2012

ルーシー・リーの伯父サンダー

ルーシー・リーに強い影響を与えた人物の一人にサンダー伯父がいます。
ルーシーの母親、ギーゼラの兄にあたるアレキサンダー・ヴォルフ(1871-1946、サンダー伯父)です。

ギーゼラの実家はオーストリアのブルゲンラント州の州都、アイゼンシュタットで手広くワイン製造を行っており裕福で影響力を持つ一家でした。そこで家督をついだ兄二人のうち、一人が美術品の収集をし、旅行家であり、高い審美眼を持っていたサンダーでした。彼は、実家ヴォルフ邸をヴォルフ博物館として公開し、一時期はヨーロッパで一番重要な、ユダヤ人関連のコレクションを持つ博物館と見なされていました。所蔵品はもちろんユダヤ人関連に限らず、ローマ時代の発掘品である陶器など広く美術品を26,000点余集めていました。

ナチスの台頭でサンダー伯父やいとこはハイファに逃れ、そのヴォルフ邸はナチスに没収され、その司令部となりましたが、戦後サンダーはオーストリアにもどるつもりのないことを手紙で告げ、現在サンダーのコレクションを元にブルゲンラント州立博物館となっています。

ルーシーは従姉と共にサンダーに連れられてヨーロッパを旅し、スイスのチロルでスキーにも興じています。伯父に見せられたローマ時代の陶器を折に触れて目にしていたルーシーはそれらに強い興味を持ち、考古学に惹かれたようです。

ルーシー自身が語っていたようですが、サンダー伯父の写真を見ると驚くほどルーシーは伯父に似ています。その目や鼻、口、すべてルーシーにサンダー伯父の面影を見ることができます。

サンダー伯父はハイファに逃れた後1946年1月2日に亡くなりました。その頃ルーシーはロンドンのアルビオン・ミューズに工房をかまえてボタンだけでなく、ようやく自分の作品を作リ始めていました。

ハンス・コパーのディスクは今?

2009-2011年に日本の6美術館を巡回して大きな話題になった「ハンス・コパー 20世紀陶芸の革新」展。そこに出品されて広く世界に紹介された、スウィントン・スクールの壁面に取り付けられていたディスクはその後どうなったのでしょうか?

実は展覧会が終わってロンドンに返却された際、スウィントン・スクールでは保管の責任と安全の観点から美術館へ売却することを望んでいました。ヨーク美術館を始めとしていくつもの美術館が手に入れたいと基金を募ったのですが、予算がかなわず、結局このディスクを手に入れたのは個人だったのです。

というのは、オークションで5万ポンドから7万ポンドであろうという予測を大きく上回り、181,250ポンド(日本円でおおよそ2350万円)にもなりました。コパーの委託制作料が幾らであったのか知られていませんが、この値段を知ったらハンス・コパー自身多いに驚く事でしょう。

このディスクにはコパーの作品に連なる形が 数多く見られます。ディスクのひとつをとって立ててみたり横にしてみたり、またこれを組み合わせてみるとディグスウェル時代やその後に出てくるキクラデスの形さえも見ることができます。

このディスクすべてを購入したのはヨーロッパに住む個人とのことですので、公開されることはもうないように思われます。自宅の壁に埋め込んで眺めるのでしょうか。かなうことなら聞いてみたい気がします。

エマニュエル・クーパー著『ルーシー・リー』

数々の著書を持つエマニュエル・クーパー氏が1月21日、亡くなった。73才だった。自身も陶芸家であり評論家、ブロードキャスタでもありキューレターでもあり、またゲイの活動家でもあった。型にはまらない幅広い分野で活躍し、最も最近の著書『バーナード・リーチ 生涯と作品』はリーチ伝記の最高峰と言われる。

そのエマニュエル・クーパー氏の最後の著書となったのがこの夏にロンドンで発売される『ルーシー・リー』だ。あまり知られていない、リーのオーストリア時代のリサーチを重点的にとりあげたというその書物は日本語版もヒュース・テンから出版が予定されている。これはエマニュエル氏が2011年、がんの手術を終えるやリーのリサーチにもどり、彼が亡くなった死の机にはその校正が残されていたものだ。

『ルーシー・リー』は40点のカラー写真を含む110点の写真とテキストで構成され、日本語版の出版は来年になる予定。


ボンナムズのルーシー・リー

前回、「かつてボンナムズというオークションハウスがあった」と書きましたが、ボンナムズは今も存在します。どちらかというとクラシックカーなどが専門のようです。ただ、陶芸に関する限り、シリル・フランケルがいた当時の面影はありません。

シリル・フランケルはルーシー・リーと個人的にも親しく、また作品の価値を本当にわかっている人物でした。ニューヨークのメトロポリタン美術館へルーシー・リーとハンス・コパーの二人展を働きかけたのもシリルです。彼は二人を陶芸家としてより芸術家として知らしめたいと純粋美術の美術館に持ちかけました。その時点ではその試みは成功しませんでしたが、その数年後、メトロポリタンの20世紀デザイン部門コンサルタント、J・ステュワート・ジョンソン氏が今度はシリルを訪ね、ようやく二人の展覧会が実現することになりました。1994年のことです。

またシリルのもとで世界中のルーシー・リーとハンス・コパー作品を見て来たウィリアムズ氏も今はフィリップスに移り、今やフィリップスが二人の作品を扱う権威となっています。

ルーシー・リー、ハンス・コパーのオークションハウス・ボンナムズ

オークションハウス・ボンナムズ(BONHAMS) かつてロンドンにボンナムズというオークションハウスがあった。ルーシー・リーの友人だったシリル・フランケルという人物が関わり、陶芸界では最も有名な歴史的オークションを数多く主催しました。ハンス・コパー作品のオークションでは、陶芸界での歴史的最高価格を記録しています。
1997年、ルーシー・リーの没後(1995年)初のオークションが開催され、コレクターや美術館の大きな注目を集めた。ルーシー・リーの生涯を通じた作品が「SALE OF A LIFETIME」というタイトルのもとに集められ、若々しく、華やいで気品にあふれたルーシー・リーの美しい姿が表紙を飾っている。
カタログとはいえ、ルーシー・リーの下の兄、ポールによるルーシーの素描やバーナード・リーチからの道具の作り方指南の手紙など、豊富な資料と写真を掲載した今では貴重な本となっている。
このオークションでの作品のうち何点かは幾人もの手を経て日本に渡り、美術館や個人のコレクションとなっている。 またあの有名なウェッジウッド委託のコーヒーカップのプロトタイプ全21点がオークション対象になったのもこのセールにおいてだった。
しかし、最後までルーシー・リーの工房に残されていた21点を分散させるには忍びないと遺産相続人となった関係者の間で協議、一括してセインズベリー卿の手に委ねることになった。そのおかげで私たちはいつでもノリッチにあるセインズベリー視聴覚センターに行けばこれらに会うことが出来る。
ウェッジウッドのこの試みが何故実現されなかったのかは定かでない。ルーシー・リーは、幾ばくかのお金で買い取ろうとしたウェッジウッドの提案を断り、代わりに作品の返却を求めた。 もし、この企画が実現され、これらの作品のデザインが量産化されていたら、ウェッジウッドのみならず、世界のデザイン界を大きく変えていただろうと言われている。


ハンス・コパーの遺した言葉

今までハンス・コパーの遺した言葉・文章はたったひとつ、ピーター・コリングウッドとの二人展をヴィクトリア・アンド・アルバート美術館で開催したときのカタログに載せた


「王朝誕生以前のエジプトの器、私の手の大きさでやや卵形の:何千年も前に、おそらく奴隷の手によって作られ、色々な意味で生き抜いてきた。つつましく無抵抗で、どことなくこっけいなーしかし力強く神秘的で官能的だ。
何かを伝えるのではなく、自己表現をするわけでもないが、しかし作り手とその生きた時代の人間世界を内包し映し出しているように見える。微かな力で、そして敬意を込めて。「人間」によって作られた完璧に無駄のない物体。ジャコメッティの人物像。バックミンスター・フラーの人間。普遍のもの。 私を真に魅了したのはこの器だけだ。それは私が器を作る理由ではないが、しかしそれは人とは何かをかいま見せてくれる。
私の関心は、実験や探検にあるのではなく本質を引き出すことにある。ろくろは簡潔さを要求し限界を決定づけ、勢いと連続性を与える。単純なテーマで連続したヴァリエーションを作ることに集中する時、私はその工程の一部になっていく。私は今ーこのすばらしい世紀にー存在するという体験に共鳴しうる感度を持った道具を学び始める。 その目的と機能に関してはあいまいに語られるクラフトというものに取り組む時、人は不条理に直面することがある。まるで取り憑かれたピアノ調律士のように、何よりもまず幻の絶対音程に近づこうとするのだ。そして消え去ってしまう見せかけの理念に逃避しがちだ。しかしそれでもなお、習慣となった仕事は残る。人は現実に取り組む。」(トニー・バークス著『ハンス・コパー』より)
だけと思われていた。しかしエマニュエル・クーパー著『バーナード・リーチ 生涯と作品』(2011年ヒュース・テン出版)によると、晩年のリーチが新聞の攻撃にさらされた時に、ハンス・コパーがいち早く抗議の手紙を新聞社に書いたと明らかにされている。 この事実はコパー研究の大きな助けとなるだろう。すべてを消し去ることを求めたコパーの知られざる一面だからだ。 コパーは先のヴィクトリア・アンド・アルバート美術館のカタログの文章さえ、あとから同美術館に、記載をしないようにとの手紙を書いたとされている。その願いは聞き入れられず、結局ピーター・コリングウッドの文章と共に、コパーの上の文章が遺さ…

ルーシー・リーとイーヴァ・ズィーセル

イーヴァ・ズィーセルが年末に亡くなった。105才だったという。ハンガリーで生まれ、32才でニューヨークに渡り、晩年まですばらしい有機的デザインの陶器を作り続けていた。

ズィーセル(エヴァ・ゼイセルと書かれることもあるが正しくはイーヴァ・ズィーセル)の名を知らない人でも彼女のデザインした器はどこかで見かけているだろう。ズィーセルを語る時、ルーシー・リーとの幾つもの共通点を思わずにはいられない。

リーは1902年、ウィーンで生まれ工業美術学校で学んだ。ナチスの迫害を逃れて1938年イギリスに亡命、1995年に93才で亡くなるまでロンドンで生涯家庭用の器を作り続けた。ズィーセルは1906年ブダペストに生まれ、王立美術学院で絵画を学ぶが、叔母の影響で陶芸に転向。ドイツ製陶会社で食器のデザインをした後、旧ソビエトで工業デザイナーとして仕事をしていたがスターリン暗殺の容疑で逮捕される。16ヶ月間投獄の後、何の説明もなく解放され、その後ウィーンへ行くがナチスの台頭によって1938年イギリスに渡る。

同年アメリカに渡り、ニューヨークに着いて2日目にアメリカの製陶業者を図書館で調べて連絡をとっている。ルーシー・リーもロンドンに亡命して自分から陶芸の大御所バーナード・リーチに連絡をとり教えをこうている。多くの、女性のパイオニア世代がそうであるように、二人とも実行の人であり、 強い意志をもってひたむきに自分の思う道を進んで来たようにみえる。

また、二人ともバウハウスの影響を受けてシンプルでありながら優雅な作品を作った。生活の為の作品、デザインを追求し、「実用でありかつ美しい家庭用のもの」を求め続けた。 ズィーセルは「男性には家庭用の器をどのように作るかの概念が全くない、故に自分たちの使う物は女性がデザインするべき」と語っている。