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Showing posts from November, 2018

ルーシー・リーとハンス・コパー物語 12 ルーシーの結婚

ニューヨーク・タイムズで「運命が二人の出会いをもたらした・・・」と紹介されたイギリスの陶芸家ルーシー・リーとハンス・コパーは、バーナード・リーチとともに20世紀陶芸の巨匠と目されます。二人はナチスから逃れてロンドンで出会いますが生涯稀有のパートナーシップと友情で結ばれ、彼らの作品はお互いを抜きに語ることはできないと言われます。その二人の物語を紹介していきます。

1926年、ヨーロッパで最初の革新的な美術学校となった工業美術学校を卒業すると、才能があり勉強熱心であったルーシーは、ポヴォルニーから誘われて彼の工房に場所を借りて自分の仕事をすることが出来た。また、エッセンでの国際展にルーシーのポットが展示されたこともあり、独立するに十分な注文も受けていた。

一方ルーシーは淡い思いを抱いていたエルンスト・リーが山の遭難事故で亡くなって以来、喪失の思いを共有していたエルンストの弟ハンスと気持ちが近しくなっていた。家族ぐるみの付き合いが続き、やがて卒業と同時に結婚することが進められた。夫となるハンスは、フェルト帽工場のマネジャーとして有能で、将来が約束されていた。ルーシーも制作を続けていこうとしていた。

強い結びつきで知られるユダヤ人家族の一人娘として、ルーシーの実家の一部を改造して新婚の二人が住むことは、とりあえずの若いカップルの堅実的な選択であったのかもしれない。


二人がルーシーの実家に住むことで、ルーシーへの器の注文を父や母が代わりに受けることもあった。カラフルなフィギャーや装飾性の高いツボなどで名高いゴールドシャイダーセラミックス社が、ルーシーの作品の一点を製品化して1928年に展示したとの記録もあり(母ギーゼラからルーシーに宛てた手紙)、後にウェッジウッドからの申し出の経緯を考えると興味深い。
ただし伝統的な妻になることを期待する両親との同居は様々な葛藤も生んだ。ルーシーは両親の定期的な休暇によって家や使用人のの管理を任されることや、家族への義務、ゴンペルツ家に夫ハンスが溶け込むことを要求されると感じていた。また作品制作にもっと時間を使いたいと望んだ。
3年がそのように過ぎ、ある時叔父のサンダー・フォルフから救いの手が差し伸べられた。

ルーシー・リーとハンス・コパー物語 11 ウィーン時代のルーシーの釉薬

ニューヨーク・タイムズで「運命が二人の出会いをもたらした・・・」と紹介されたイギリスの陶芸家ルーシー・リーとハンス・コパーは、バーナード・リーチとともに20世紀陶芸の巨匠と目されます。二人はナチスから逃れてロンドンで出会いますが生涯稀有のパートナーシップと友情で結ばれ、彼らの作品はお互いを抜きに語ることはできないと言われます。その二人の物語を紹介していきます。

当時、ポヴォルニーの作るフィギャーやクラスメートの作るカラフルで装飾性に富んだ作品が主流を占めていた陶芸環境にあって、ルーシーの作る器がシンプルなフォルムや色であったことは特異なことに思えるが、その点ではホフマンのミニマルな形やモダニズムに、また初期のウィーン工房の精神に、より影響を受けたと思われる。
ルーシーの関心はもっぱら釉薬にあり、工業美術学校時代、その実験に没頭していた。その頃書き留めた実験の釉薬ノートの数々は、のちにロンドンに亡命してからのボタン作りや作品に大いに生かされている。
ルーシーの釉薬ノートには工業美術学校時代に行った数々の実験の結果やこの頃開発した釉薬が細かく書かれている。その釉薬ノートを詳しく調査したオクスフォード大学の上級研究員ナイジェル・ウッド氏はルーシーが「しばしば釉薬そのものを装飾とした」と表現している。


通常「ピンホールを美しいと思う陶芸家はまれであるだろう。しかしルーシーはこの減現象に日を見出す鋭い洞察力と完成を持ち合わせていた・・・(中略)・・初期の頃の家庭用食器に使用した標準的な透明釉に酸化亜鉛が高い比率で含まれていたためピンホールが発生したのかもしれない。また、釉薬を刷毛で塗る技法もピンホールを発生させやすい。特に乾燥した生地に釉薬を塗る場合よりも、釉薬を重ね塗りするときに空気を取り込んでしまうことが多い。ルーシーの釉薬は特別粘着性が高いので、窯にいれても空気の泡が残り、表面に細かい空気穴を大量に残しやすい」(「生誕100年記念ルーシー・リー展 静寂の美へ」カタログのナイジェル・ウッド氏エッセイより)
後にルーシーは「溶岩釉」として知られる、シリコンカーバイドを使った厚い泥漿・釉薬を好んで使用するが、すでにウィーン時代に、空気の泡から生まれるこのピンホールと通じる表情が見られる。

ルーシー・リーとハンス・コパー物語 10 ポヴォルニーの授業

ニューヨーク・タイムズで「運命が二人の出会いをもたらした・・・」と紹介されたイギリスの陶芸家ルーシー・リーとハンス・コパーは、バーナード・リーチとともに20世紀陶芸の巨匠と目されます。二人はナチスから逃れてロンドンで出会いますが生涯稀有のパートナーシップと友情で結ばれ、彼らの作品はお互いを抜きに語ることはできないと言われます。その二人の物語を紹介していきます。

工業美術学校でルーシーは、陶芸に関する知識をミヒャエル・ポヴォルニーから授かった。ポヴォルニーの授業はかなり厳しいものだったが、陶芸コースは高い国際的評価を得ており海外からの学生も多数学んでいた。その一人、アメリカのクリーヴランド美術学校の生徒だったヴィクトール・シュレッケンゴーストが当時のポヴォルニーの教えについてエピソードを残している。
シュレッケンゴーストはすでに母国で陶芸で熟練者であったにもかかわらず、ポヴォルニーは彼に、サイズを変えて一定の形をろくろ挽きする課題を与えた。来る日も来る日も6週間の間「ポヴォルニーは私の挽いた器の形が違っていないか2つに切って立証した・・・ある日ついに栄光の日がやってきた。ポヴォルニーはポットを見て、一つのポットを裏返し、学校のサインをそこに押して『さあ、これで焼成していいよ。これ全部が学校の財産だとわかっているだろう?もし家に持って帰りたかったら買わなくちゃいけないよ』と言った。それは最高の日となった」
ルーシーも同じような訓練を受けたことだろう。ルーシーの伝記を書いたトニー・バークスに、彼女はポヴォルニーを尊敬し、感謝していると語っている。