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ピンホール釉薬として知られる Crafts Study Centre |
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1930年代 ロッテ・マイトナー・グラフ撮影 |
当時、ポヴォルニーの作るフィギャーやクラスメートの作るカラフルで装飾性に富んだ作品が主流を占めていた陶芸環境にあって、ルーシーの作る器がシンプルなフォルムや色であったことは特異なことに思えるが、その点ではホフマンのミニマルな形やモダニズムに、また初期のウィーン工房の精神に、より影響を受けたと思われる。
ルーシーの関心はもっぱら釉薬にあり、工業美術学校時代、その実験に没頭していた。その頃書き留めた実験の釉薬ノートの数々は、のちにロンドンに亡命してからのボタン作りや作品に大いに生かされている。
ルーシーの釉薬ノートには工業美術学校時代に行った数々の実験の結果やこの頃開発した釉薬が細かく書かれている。その釉薬ノートを詳しく調査したオクスフォード大学の上級研究員ナイジェル・ウッド氏はルーシーが「しばしば釉薬そのものを装飾とした」と表現している。
通常「ピンホールを美しいと思う陶芸家はまれであるだろう。しかしルーシーはこの減現象に日を見出す鋭い洞察力と完成を持ち合わせていた・・・(中略)・・初期の頃の家庭用食器に使用した標準的な透明釉に酸化亜鉛が高い比率で含まれていたためピンホールが発生したのかもしれない。また、釉薬を刷毛で塗る技法もピンホールを発生させやすい。特に乾燥した生地に釉薬を塗る場合よりも、釉薬を重ね塗りするときに空気を取り込んでしまうことが多い。ルーシーの釉薬は特別粘着性が高いので、窯にいれても空気の泡が残り、表面に細かい空気穴を大量に残しやすい」(「生誕100年記念ルーシー・リー展 静寂の美へ」カタログのナイジェル・ウッド氏エッセイより)
後にルーシーは「溶岩釉」として知られる、シリコンカーバイドを使った厚い泥漿・釉薬を好んで使用するが、すでにウィーン時代に、空気の泡から生まれるこのピンホールと通じる表情が見られる。
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