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Showing posts from 2011

プリシュケのデザインしたルーシー・リーの家具

ウィーンの王立家具博物館にはエルンスト・プリシュケのデザインによるルーシー・リーの家具が展示されている。リーが結婚してウィーンのヴォルツアイレ通りのアパートに住んだ時、プリシュケに依頼して作らせたものだ。リーは、バウハウスに連なるデザインのその家具を、ロンドンに亡命してアルビオン・ミューズに工房兼住まいを構えたときにとウィーンから取り寄せ備え付けている。ウィーンからいったいどのように取り寄せることができたのか詳しくはわかっていないが、それらのシンプルな家具をリーは終世愛用した。 ルーシー・リーが亡くなってから、オーストリアの王立博物館はリーのアパートの部屋を再現しそれらの家具を展示している。リーの作品はたった一点、白の掻き落としの鉢がその部屋の前にケースに入れられ展示されている。

ウォール・ディスクのその後

スウィントンスクールのウォール・ディスクは、日本で6美術館を巡回後、今年7月に無事にロンドンに返却された。だが、もうスウィントンスクールに戻される事はないと聞いていた。 コパーのウォール・ディスクは学校のエントランスと、中の教室を隔てる壁として設置されていたが、展覧会の為にコパー作品の価値が町中に知れ渡り、安全な保管をすることに学校が不安を持ったためだった。また管理する費用もないので美術館に購入される事を望んだからだ。 市の予算の関係で校舎の立て替え計画が中断してしまったため、学校としてはディスクを売って少しでも財政的な基盤を確保したいということもあった。 そこで、フィリップスのオークションハウスに出されることになった。結果としてそれは181,250ポンドという高値で落とされた。ポンドはかつての半値ほどになったとはいえ約2300万円という値段だ。ほんの5年前、2007年には一ポンド250円だったのでその頃であれば日本円で実に4600万だ。 さて競り落としたのは残念ながら、それを購入したいと望んでいたヨーク市美術館ではなかった。個人だという。個人でこのディスクをどうしたいのか、今はまだ謎だ。まさか自宅にこの壁を設置するのだろうか、それとも美術館に寄託する意図があるのか、、、。そのうち明らかになるだろう。

ハンス・コパーのウォールディスク

ハンス・コパーがヨークシャー州のスウィントン・スクールに 設置した壁の作品がロンドンのオークションハウスで展示されて いる。 日本での「ハンス・コパー 20世紀の革新」展のスタッフによって スウィントン・スクールに現存していた作品が「再発見」され、 日本での巡回に展示されて大きな話題を呼んだ作品だ。 展覧会後、ディスクの価値が広く知られてしまったため、 スウィントン・スクールでは、その保管に大きな不安を抱いたという。 そのため、もとの場所にもどすことは出来ず、美術館に納められる ことを願ってオークションにかけられることになった。ハウスでは 公開に先立っていくつか美術館に知らせ、さっそく購入希望の 美術館がいくつかファンド・レイジングをスタートさせたと聞く。 ハンス・コパーの作品は以前にもオークションで陶磁器での市場最高値を つけた記録がある。また、オークションに出されはしたが、コレクターの 一人が買い取ってもとの教会に寄贈した例もある。 特にディスクはこれが現存する唯一の壁作品であろうと言われるため 美術館にとっても大きなメリットになるだろう。公の場所に納まって、 いつもそこに行けば作品に出会える空間が出来るとうれしいのだが。

ルーシー・リー in Japan?

日本で最後の巡回地となる 萩 の萩美術館・浦上記念館で ルーシー・リー展が始まる。 静岡での ハンス・コパー展 と同じく6月26日まで 開催される。 ところで、あるデザイン会社というところのブログに ルーシー・リーが日本を訪問した事がある、という驚きの 記載があった。 ルーシー・リーについて「どこにもでていないおはなしを 披露しましょう」として昭和9年(1934年)にルーシー・リーが 益子の濱田庄司邸を訪れたと濱田庄司の妻、和枝さんが 語った、とある。 冗談かと何度も読み返したが、 和枝さんから直接聞いたことと 手紙のやりとりで得た情報と書かれている。 1934年といえばルーシー・リーはまだウィーンで生活していた。 ルーシー・リーは1938年にナチスを逃れてロンドンに 亡命したが、その時点でまだバーナード・リーチにさえ 知古を得ていない。ましてウィーン時代に濱田を知る由も ないだろうことを考えると、この「情報」は明らかな 誤りであろう。 つい昨年のことだが、 フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia)』 の「バーナード・リーチ」の 項で「リーチの母親は日本人」とする解説があり これにも驚かされた。これを参考にして実際の展覧会の 解説が書かれていた事もあり、溢れる情報の功罪を 改めて認識した。 結局情報を集めたあと、その情報がどこまで正しいかを 調べて確認することが極めて重要となるだろう。 といって情報が正しくとも誤っていても ルーシー・リーの作品の美しさには関係ないけれど。

静岡市美術館でのハンス・コパー展

静岡市美術館 でハンス・コパー展が始まった。 この静岡市美術館でのコパー展は2099年に兵庫県陶芸美術館で スタートを切った今回の巡回最後の会場となる。これほど本格的な コパーの展覧会は海外も含めてもう当分見ることができないだろう。 静岡市美術館は新幹線の停まる静岡駅前の高層ビルに入った ユニークな街中美術館だ。前身の静岡アートギャラリー 時代には「ルーシー・リー生誕100年記念 静寂の美」展 を開催している。 新しく場所を変えて昨年オープンした美術館は 真っ白な壁、白木の床、黒の格子状の天井を持つ ニュートラルなすばらしい空間となっている。 コパーの展示作品は コパーが制作した土地の名前をとって アルビオンミューズ、ディグズウェル、ロンドン フルーム、のパートに分かれて展示され、最後の部屋に ルーシー・リーの作品が展示されている。 これは前にも書いたかもしれないが、 ニューヨークのメトロポリタンミュージアムで初めての 個人作家を取り上げた展覧会となった ルーシー・リーとハンス・コパーの二人展で 「運命が二人の出会いをもたらした」と紹介されている。 どちらを抜きにしてもどちらかを語ることはできないと 言われるほど、お互いに影響を与え合った作家だ。 戦後仕事を求めてコパーがアルビオンミューズの工房のドアを たたいてからその後13年間ルーシー・リーの工房でコパーは 制作を共にした。 二人は制作において多くの共通点を持っている。まず 素焼きせずに一度焼成をする技法。これは経済的なことも あっただろうけれど、生地と釉薬、化粧土が一体化した 特徴ある表情を作ることを意図してもいるだろう。 そして粘土。Tマテリアルというシャモットの混ざった粘土。 ろくろによる成形。ゼーゲルコーン8の焼成温度。電気の窯。 部分を作りそれを合わせてつなぐ合接の手法。 それでいながら二人の作品は非常に異なる。ルーシー・リーの 華麗な色使いに対してコパーはあくまで白、茶、黒を 基本とした色以外を使おうとしない。そしてその少ない色調から これほど豊かな表情が生まれていることに驚かされる。 静岡市美術館でのハンス・コパー展は6月26日まで開催されます。