さらなる驚愕の事実、とはこうだ。
展覧会図録にあるこの日本語訳の原文(英語)を読んでみた。驚くことに、エッセイの原文自体がEmmanuel Cooper『Lucie Rie: Modernist Potter』(2012年イェール大学出版)の原書そのままの箇所が多数ある。「箇所が多数ある」は控えめな言い方だ。3ページ足らずのエッセイであれだけの「そっくり文」があるのだ。いや、「そっくり文」は控えめな言い方だ。そっくり、ではなく、「そのままコピー」の文章なのだから。
まさに、クーパー本のうつし、のような文章。まさか、何か間違いだろう、あり得ないことだ、と思いつつ何度も英文を読む。でもクーパー本を参照とか引用という記載は一箇所のみ。日本語訳に書かれていたのと同じく(展覧会エッセイの「原文」なので当然のことだが)「註9」はクーパー本の引用とある。引用したのは、註9のこのセンテンスだけだよ、と言っている。
例えばこういう箇所もある。「註6」は、2014年に書かれた自身の文章を参照元と記載している。ところがそれは、クーパー本と一字一句同じだ。そしてクーパー本の発行は2012年だ。自身が書いたとする、その文章自体が、元はクーパー本を参照したもので、今回は意図して迂回させたのではないかという疑問が湧き上がる。
この、英文のエッセイを書いたオーストリア応用美術館の学芸員の方は、どういう経緯でどういう意図があってこれを書いたのだろう。日本で出版される図録は日本だけだから、クーパー本を読んだ人はいないだろう、と考えたのだろうか。いや、何かの間違いか、私の見方が間違っているのに違いない。公の美術館の、国を代表する美術館の学芸員が「コピーペースト」なんて不正をするわけがない。やっぱり私がどこかで見落としをしているに違いない。これは正しくオリジナルのエッセイであり、引用部分が多くてもどこかにそれをきちんと断っているに違いない、、、と私の思考は堂々巡りをしている。
もしも、もしもだが、私の疑問がまともであり本当にコピーペーストが行われたのだとしたら、ここには二重の不誠実がある。
ひとつは図録のエッセイ原文そのものが Emmanuel Cooper『Lucie Rie: Modernist Potter』からの(引用ではなく)借用(アンダーライン筆者)が多見され、その事実に対する記載がないこと。もうひとつ…
展覧会図録にあるこの日本語訳の原文(英語)を読んでみた。驚くことに、エッセイの原文自体がEmmanuel Cooper『Lucie Rie: Modernist Potter』(2012年イェール大学出版)の原書そのままの箇所が多数ある。「箇所が多数ある」は控えめな言い方だ。3ページ足らずのエッセイであれだけの「そっくり文」があるのだ。いや、「そっくり文」は控えめな言い方だ。そっくり、ではなく、「そのままコピー」の文章なのだから。
まさに、クーパー本のうつし、のような文章。まさか、何か間違いだろう、あり得ないことだ、と思いつつ何度も英文を読む。でもクーパー本を参照とか引用という記載は一箇所のみ。日本語訳に書かれていたのと同じく(展覧会エッセイの「原文」なので当然のことだが)「註9」はクーパー本の引用とある。引用したのは、註9のこのセンテンスだけだよ、と言っている。
例えばこういう箇所もある。「註6」は、2014年に書かれた自身の文章を参照元と記載している。ところがそれは、クーパー本と一字一句同じだ。そしてクーパー本の発行は2012年だ。自身が書いたとする、その文章自体が、元はクーパー本を参照したもので、今回は意図して迂回させたのではないかという疑問が湧き上がる。
この、英文のエッセイを書いたオーストリア応用美術館の学芸員の方は、どういう経緯でどういう意図があってこれを書いたのだろう。日本で出版される図録は日本だけだから、クーパー本を読んだ人はいないだろう、と考えたのだろうか。いや、何かの間違いか、私の見方が間違っているのに違いない。公の美術館の、国を代表する美術館の学芸員が「コピーペースト」なんて不正をするわけがない。やっぱり私がどこかで見落としをしているに違いない。これは正しくオリジナルのエッセイであり、引用部分が多くてもどこかにそれをきちんと断っているに違いない、、、と私の思考は堂々巡りをしている。
もしも、もしもだが、私の疑問がまともであり本当にコピーペーストが行われたのだとしたら、ここには二重の不誠実がある。
ひとつは図録のエッセイ原文そのものが Emmanuel Cooper『Lucie Rie: Modernist Potter』からの(引用ではなく)借用(アンダーライン筆者)が多見され、その事実に対する記載がないこと。もうひとつ…