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Showing posts from June, 2017

クーパー著「ルーシー・リー モダニズムの陶芸家」にあまりにも似た図録エッセイ −2 

ルーシー・リー 1960年代 Photo:  Stella Snead Crafts Study Centre Archiveより さらなる驚愕の事実、とはこうだ。 展覧会図録にあるこの日本語訳の原文(英語)を読んでみた。驚くことに、エッセイの原文自体が Emmanuel Cooper 『 Lucie Rie: Modernist Potter 』 (2012 年イェール大学出版 ) の原書そのままの箇所が多数ある。「箇所が多数ある」は控えめな言い方だ。3ページ足らずのエッセイであれだけの「そっくり文」があるのだ。いや、「そっくり文」は控えめな言い方だ。そっくり、ではなく、「そのままコピー」の文章なのだから。 まさに、クーパー本のうつし、のような文章。まさか、何か間違いだろう、あり得ないことだ、と思いつつ何度も英文を読む。でもクーパー本を参照とか引用という記載は一箇所のみ。日本語訳に書かれていたのと同じく(展覧会エッセイの「原文」なので当然のことだが)「註9」はクーパー本の引用とある。引用したのは、註9のこのセンテンスだけだよ、と言っている。 例えばこういう箇所もある。「註6」は、 2014 年に書かれた自身の文章を参照元と記載している。ところがそれは、クーパー本と一字一句同じだ。そしてクーパー本の発行は 2012 年だ。自身が書いたとする、その文章自体が、元はクーパー本を参照したもので、今回は意図して迂回させたのではないかという疑問が湧き上がる。 この、英文のエッセイを書いたオーストリア応用美術館の学芸員の方は、どういう経緯でどういう意図があってこれを書いたのだろう。日本で出版される図録は日本だけだから、クーパー本を読んだ人はいないだろう、と考えたのだろうか。いや、何かの間違いか、私の見方が間違っているのに違いない。公の美術館の、国を代表する美術館の学芸員が「コピーペースト」なんて不正をするわけがない。やっぱり私がどこかで見落としをしているに違いない。これは正しくオリジナルのエッセイであり、引用部分が多くてもどこかにそれをきちんと断っているに違いない、、、と私の思考は堂々巡りをしている。 もしも、もしもだが、私の疑問がまともであり本当にコピーペーストが行われたのだとしたら、ここには二重の不誠実がある

クーパー著『ルーシー・リー モダニズムの陶芸家』にあまりにも似た図録エッセイ −1

エマニュエル・クーパー著『ルーシー・リー モダニズムの陶芸家』表紙 『没後20年 ルーシー・リー展』図録表紙 何人かの方からの指摘もあった。おかしいのでは?と。ヒュース・テンが関わっているのですか?と。 このようなことがあってもいいのだろうか・・・大きな驚きの中で2年以上経った。 この思いを書いてもいいものか・・・と迷いに迷った。 こんなことどうでもいいではないか、という気持ちもある。 展覧会が終わって2年以上経った今、もう書いてもいいのではないか、とも思う。 2015 年 4 月に茨城県陶芸美術館で開催され、千葉市美術館、姫路市立美術館、郡山市立美術館、静岡市美術館を巡回した「没後 20 年ルーシー・リー展」図録のエッセイについてだ。 展覧会自体は、オーストリア応用美術館( MAK) に所蔵されていたルーシー・リーの学生時代の作品を含み、圧倒される点数の作品が展示されていた。図録は、 2010−11 年に 6 美術館を巡回した回顧展に出版された図録と対になるような体裁で作られている。 これから書く文章はあくまで展覧会図録の一エッセイについてであり、ルーシー・リーの作品に出会う機会を感謝こそすれ貶める意図は全くない。 展覧会も終わり、図録の文章を初めて読み始めて途中で、あれ?と思った。どこかでこれは前に読んだことがある、、、。その違和感は読み進むうちにますます大きくなり、一体これはどういうことだろう?と不思議な思いを禁じ得なかった。 図録にあるエッセイのひとつが、エマニュエル・クーパー著『ルーシー・リー モダニズムの陶芸家』日本語版にあまりにも似ているのだ。時にルーシーの旧姓「ゴンペルツ」を「ルーシー」に置き換えたりしているが。似ている箇所を両方で比べてみた。ほんの一部を挙げてみると、例えば: 例1  展覧会図録  261 ページ 陶芸は、金工やテキスタイル、ガラスと並んで、工業美術学校のなかでも最も人気のある科目だった。ある程度これは、学校が享受した高い評判と、 1909 年から 1936 年にわたって陶芸科を率いてきた学部長ミヒャエル・ポヴォルニー( 1871−1954 ) の名声とその人柄によるものであった。ポヴォルニーはその手腕を認められ 1912 年に教授に