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クーパー著「ルーシー・リー モダニズムの陶芸家」にあまりにも似た図録エッセイ −2 

ルーシー・リー 1960年代 Photo:  Stella Snead
Crafts Study Centre Archiveより



さらなる驚愕の事実、とはこうだ。

展覧会図録にあるこの日本語訳の原文(英語)を読んでみた。驚くことに、エッセイの原文自体がEmmanuel CooperLucie Rie: Modernist Potter(2012年イェール大学出版)の原書そのままの箇所が多数ある。「箇所が多数ある」は控えめな言い方だ。3ページ足らずのエッセイであれだけの「そっくり文」があるのだ。いや、「そっくり文」は控えめな言い方だ。そっくり、ではなく、「そのままコピー」の文章なのだから。

まさに、クーパー本のうつし、のような文章。まさか、何か間違いだろう、あり得ないことだ、と思いつつ何度も英文を読む。でもクーパー本を参照とか引用という記載は一箇所のみ。日本語訳に書かれていたのと同じく(展覧会エッセイの「原文」なので当然のことだが)「註9」はクーパー本の引用とある。引用したのは、註9のこのセンテンスだけだよ、と言っている。

例えばこういう箇所もある。「註6」は、2014年に書かれた自身の文章を参照元と記載している。ところがそれは、クーパー本と一字一句同じだ。そしてクーパー本の発行は2012年だ。自身が書いたとする、その文章自体が、元はクーパー本を参照したもので、今回は意図して迂回させたのではないかという疑問が湧き上がる。

この、英文のエッセイを書いたオーストリア応用美術館の学芸員の方は、どういう経緯でどういう意図があってこれを書いたのだろう。日本で出版される図録は日本だけだから、クーパー本を読んだ人はいないだろう、と考えたのだろうか。いや、何かの間違いか、私の見方が間違っているのに違いない。公の美術館の、国を代表する美術館の学芸員が「コピーペースト」なんて不正をするわけがない。やっぱり私がどこかで見落としをしているに違いない。これは正しくオリジナルのエッセイであり、引用部分が多くてもどこかにそれをきちんと断っているに違いない、、、と私の思考は堂々巡りをしている。

もしも、もしもだが、私の疑問がまともであり本当にコピーペーストが行われたのだとしたら、ここには二重の不誠実がある。

ひとつは図録のエッセイ原文そのものが Emmanuel CooperLucie Rie: Modernist Potter』からの(引用ではなく)借用(アンダーライン筆者)が多見され、その事実に対する記載がないこと。もうひとつはそのエッセイの日本語訳もまた、このクーパー本の翻訳書である、エマニュエル・クーパー著『ルーシー・リー モダニズムの陶芸家』日本語版(2014年ヒュース・テン発行)からの「参照」が多く、その事実に対する記載が「註9」のみに限定されていること。

この図録エッセイの翻訳者の、クーパー本の日本語版に対する誠実さもまたあまり感じられない。註9のセンテンスで「参照させていただいた」にしてはあまりに、「そのままコピー、時々言葉の入れ替え」が多すぎると感じる。

例えば、一般的には「ざらざらの」とか「質感のある」と訳されることが多い「textured」を原著日本語版から「デコボコした」との特徴ある言葉をそのまま引用している。如何ようにもの訳があり得る「Diligent and industrious」も同じ「勤勉で熱心な」である。数えていけばきりがないほど同じ言葉、同じ言い回し、同じ文章。原文が同じだから、というもっともな理屈を考慮しても、陶芸用語を知っている者しか訳さないであろうクーパー原書の翻訳にある言葉がそのまま多数使われている。

・・・I couldn’t copy them  so I did.
「私はそれを再現できなかった、(と彼は言った)だから私がしたのです」も通常は《複製、写し、模倣、コピー》が使われるであろう単語にもかかわらず、クーパー本の日本語版の訳語と同じく《再現》という特異な言葉使いをしている。日本語版を「参照」または引用したとみることができるのではないだろうか。

故意にとしか思えないところもある。オーストリア学芸員の原文でLucieとあるにも関わらず、この図録訳ではわざわざルーシーの旧姓ゴンペルツと言い換えている。これは、エマニュエル・クーパー本の日本語版が Lucie なので、両方を読んだ人が同じ文章という印象を受けるのを避けるためであろうか。名前を勝手に原文と違えるのでは、原文と訳の整合性が問われることではないだろうか。それとも私の見方が穿ちすぎているだろうか。

もちろん異なる翻訳者が同じ言葉に訳すことは普通にあり得る。だから、そのままコピーとまでは言えないしこんなことはよくあることなのかもしれない。それにエッセイ原文を訳しただけという見方をすれば気の毒だとも言えなくもない。ただ、やっぱり気持ちはどこか落ち着かない。

また、エッセイ原文については、私の読み方が間違っているのだろうかと未だに頭の中は?でいっぱいだ。これは不正ではなく何かの間違い?私がどこかで事実を読み違えているのだろうか。

       2017630日 前野晶子 

       エマニュエル・クーパー著『ルーシー・リー モダニズムの陶芸家』日本語版発行者








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