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クーパー著『ルーシー・リー モダニズムの陶芸家』にあまりにも似た図録エッセイ −1

エマニュエル・クーパー著『ルーシー・リー モダニズムの陶芸家』表紙
『没後20年 ルーシー・リー展』図録表紙
何人かの方からの指摘もあった。おかしいのでは?と。ヒュース・テンが関わっているのですか?と。

このようなことがあってもいいのだろうか・・・大きな驚きの中で2年以上経った。
この思いを書いてもいいものか・・・と迷いに迷った。
こんなことどうでもいいではないか、という気持ちもある。
展覧会が終わって2年以上経った今、もう書いてもいいのではないか、とも思う。

20154月に茨城県陶芸美術館で開催され、千葉市美術館、姫路市立美術館、郡山市立美術館、静岡市美術館を巡回した「没後20年ルーシー・リー展」図録のエッセイについてだ。

展覧会自体は、オーストリア応用美術館(MAK)に所蔵されていたルーシー・リーの学生時代の作品を含み、圧倒される点数の作品が展示されていた。図録は、2010−11年に6美術館を巡回した回顧展に出版された図録と対になるような体裁で作られている。

これから書く文章はあくまで展覧会図録の一エッセイについてであり、ルーシー・リーの作品に出会う機会を感謝こそすれ貶める意図は全くない。

展覧会も終わり、図録の文章を初めて読み始めて途中で、あれ?と思った。どこかでこれは前に読んだことがある、、、。その違和感は読み進むうちにますます大きくなり、一体これはどういうことだろう?と不思議な思いを禁じ得なかった。

図録にあるエッセイのひとつが、エマニュエル・クーパー著『ルーシー・リー モダニズムの陶芸家』日本語版にあまりにも似ているのだ。時にルーシーの旧姓「ゴンペルツ」を「ルーシー」に置き換えたりしているが。似ている箇所を両方で比べてみた。ほんの一部を挙げてみると、例えば:


例1 

展覧会図録 261ページ
陶芸は、金工やテキスタイル、ガラスと並んで、工業美術学校のなかでも最も人気のある科目だった。ある程度これは、学校が享受した高い評判と、1909年から1936年にわたって陶芸科を率いてきた学部長ミヒャエル・ポヴォルニー(1871−1954 の名声とその人柄によるものであった。ポヴォルニーはその手腕を認められ1912年に教授に就任すると、独自の専門学部を与えられた。ゴンペルツもそのひとりだが、学生たちはポヴォルニーを単に博識が高く親切な教師としてのみならず、温かみのある人物として親しみを持った。

クーパー著『ルーシー・リー モダニズムの陶芸家』日本語版 41ページ
陶芸は金工やテキスタイル、ガラスと共に工業美術学校で最も人気のある科目だった。ある程度これは、学校が享受した高い評判と、1909年から1936年まで学部を率いた学部長ミヒャエル・ポヴォルニー教授20 の人柄と名声によるものだった。彼は手腕を認められて1912年に教授に任命され、自分の専門学部を与えられた。ルーシーを含む彼の生徒は、彼を単に博識で親切な教師としてだけではなく、温かい人物とみなして親しみを持った。


例2 

展覧会図録 261ページ
学生各々が必要とするものに親身になって応じたポヴォルニーは、自ら生徒に歩み寄っては、励まし支えた。ゴンペルツは、学習の一環として近隣の美術館であった現在のオーストリア応用美術・現代美術館にポヴォルニーとともに赴いては、歴史上の陶器について論じ合った。ポヴォルニーはさまざまな技術面について言及しては、古代の作品で達成された効果は今日では再現できないと指摘した。「彼は美しい釉薬のかかった古い器を見せてはいつも、私はそれを再現できなかったと言っていましたーだから、私はやってみたのです」と、のちに彼女は語っている。自立心のある学生として、ゴンペルツはこれを挑戦すべき課題と捉え、たいてはポヴォルニーたちが称賛するような効果を達成したのだった。

クーパー著『ルーシー・リー モダニズムの陶芸家』日本語版 41ページ 
彼は学生それぞれの必要とするものに応じて、自分のやり方で彼らを支え励ました。ルーシーの教育を幅広く行う一環として、ポヴォルニーは彼女を博物館に伴い歴史上の陶器について論じた。そして個々の様々な技術的側面について、古代の作品で達成された効果は今日では再現することは出来ないのだと指摘した。「彼は美しい釉薬のかかった古いポットを見せていつも、僕はこれを再現することが出来なかったんだ、と言いました。だから私は挑戦したのです」。22 独立心のある生徒として、彼女はこれをチャレンジとして捉え、そしてしばしばポヴォルニーたちが称賛するような効果を達成することに成功した。


例3
 
展覧会図録 261ページ
ルーシー・ゴンペルツはそうしたアプローチを拒絶し、轆轤による成形に専念し、きわめてシンプルな造形を追求した。制作したいものについて明確なアイデアをもちあわせていたゴンペルツは、ミニマリストの発想に基づく(筆者註:アンダーラインの言葉は原文にない)造形表現として器を制作した。

クーパー著『ルーシー・リー モダニズムの陶芸家』日本語版 44ページ
ルーシー・ゴンペルツが美術学校に入った当初からこのアプローチを拒絶して、代わりにしばしば極めてシンプルな形をろくろで挽くことに専念したことは敬意を表すべきことだ。彼女は何を作りたいか明確なアイディアを持ち、ミニマリストの発想の表現として器の仕事をした。


例4 

展覧会図録 262ページ
勤勉で熱心なゴンペルツは、器を作り始めるとほぼ同時に、自分のやり方を確立していった。仲間の学生たちが制作した装飾的な白い錫釉の器を拒絶し、別のタイプの形と表面の仕上がりを追求した。釉薬やその質感、色、がどのような働きをするか理解するために、彼女はそれらの特性や可能性を自ら見出そうと、原料の多くのヴァリエーションを体系的にテストした。

クーパー著『ルーシー・リー モダニズムの陶芸家』日本語版 46ページ
勤勉で熱心なルーシーは、ポットを作り始めると殆んどすぐに自分のやり方を確立し始めた。仲間の学生が作った装飾された白い錫釉の器を拒絶し、他のタイプの形と表面処理を好んだ。釉薬、色、テクスチャーがどのような働きをするか理解するために、彼女はそれらの特性や可能性を自分で直接発見しようと原料の多くのバリエーションを体系的にテストした。


例5 

展覧会図録 264ページ
彼女を自身の工房で仕事をするよう招き入れゴンペルツはそこに6ヶ月間留まった。それは、自立したプロの陶芸家としてのキャリアにおいて、この上ないスタートであった。

クーパー著『ルーシー・リー モダニズムの陶芸家』日本語版 52,53ページ
ルーシーを自分の工房で仕事をするよう招き、彼女はそこに6ヶ月留まった。それはプロの独立した陶芸家としてのキャリアにとって申し分のないスタートであった。


以上は、ざっと見ただけで出てきた「極めて似ている」箇所の数々。『ルーシー・リー モダニズムの陶芸家』日本語版に「ほぼそっくり」な文章だ。まるでコピーして少し言葉を変えてみた、ような文章が他にも限りなく出て来る。

さらに、展覧会図録には、中にこんな文章がある。

    エマニュエル・クーパーの言葉を借りれば、むしろ「[・・・]自らの進むべき方向
    性を強く自覚した学生として、彼女を際立たせた」。註9

註9)Emmanuel Cooper, Lucie Rie: Modernist Potter, New York, London, 2012, p.45. [訳注:同書は次の日本語
               訳が出版されている:エマニュエル・クーパー著/西マーヤ訳『ルーシー・リー モダニズムの陶芸家』2014年。本校の
               訳出に際し参照させていただいた。記して謝意を表します。]

(上記「註9」のフォントは読みにくいほど小さいが、図録の実際フォントは更に小さい)
エッセイ全体の末尾に加えた「註9」において初めて、この括弧にくくったセンテンスはEmmanuel CooperLucie Rie: Modernist Potter』からの引用だとし、さらに小さな文字でエマニュエル・クーパー著『ルーシー・リー モダニズムの陶芸家』日本語版を[・・・参照させていただいた、記して謝意を表します。]とある。

ところがこれは「この引用部分の訳」を参照どころではない、「参照」した事実をこの「註9」として持ってくることで、この部分だけに限定した訳注であり、他は独自の文章であるかのような印象を創り出している。

しかしそれは正しくない。・・・註9の部分は「クーパー著『ルーシー・リー モダニズムの陶芸家』を参照」した、のではなく、ざっと見ただけで上記のような例が続々と出てくるのだ。

何故これほどの類似文章を公の文章として記載できるのだろう?


そして、読み進めるとさらなる驚愕の事実が明らかになった(次項)。

       2017630日 前野晶子 
        (エマニュエル・クーパー著『ルーシー・リー モダニズムの陶芸家』日本語版 発行者)

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