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Showing posts from 2007

ルーシー・リーが美術の教科書に!

                 ルーシー・リー「緑釉の鉢」1976年作 20年度の高校教科書(光村図書美術2)にルーシー・リーが紹介されます! 作品は杉山コレクションの「緑釉の鉢」。1976年作、ルーシー・リーおなじみの、 透明感あふれる緑にゴールドの口縁。ゴールドが緑の釉薬にとけ込んで 流れています。 教科書に載るまでにルーシー・リーが広く認識されたということは、 なんともすばらしく、陶芸界の大きなニュースでしょう。ルーシー・リー展 の企画を美術館に持ち歩き断られた日々が隔世の感があります。 作家の生まれた国で紹介するという決まりがあるとかで、ルーシー・リーは オーストリア生まれと記載されますが、ルーシー・リーにとってはさぞ 不本意なことでしょう。自分はイギリスに認められた、受け入れられた、と 誇りに思い、生存中は母国オーストリアでの展覧会開催も拒絶していたの ですから。 若い世代をも魅了するルーシー・リーの作品が教科書に載ることによって さらに多くの人たちに語られることでしょう。2009年には日本で初めての ハンス・コパー展が大規模に開催される予定です。また新たな ルーシー・リー展も企画されているようです。

ハンス・コパーの花生けの秘密

       ハンス・コパーの黒い花生け c.1974 正面から見たところ                  裏側から見たところ、HCの印章はのびやかですばらしいデザインです。               斜め横からみたところ                     真上からみた花生けの内側 ハンス・コパーの器の中をのぞいたことがあるでしょうか。 ハンス・コパーの花生けには秘密があります。といっても内部の構造ですが。 ハンス・コパーは自分の器が使われるように、と望んでいました。 いかにも使えそうにない彫刻的な形をした作品も多いのですが、それでも 使って欲しい、という言葉通りその花生けの中には細やかな気遣いがあります。 お花をする人はすぐ気がつくと思いますが、コパーの花生けには茎をささえる ために内側にも器が作られているのです。 内部の広い花生けでは生けた花の茎が中でばらばらになってしまいます。 それを押さえるための内側の器は外側の器と一体になり、二重構造に 作られています。 また外側の器自体もカップの中にうまった状態になっています。複雑な形なので どうやってこれが作られたのか興味深いところです。

ルーシー・リーとウェッジウッド - 2

1963年、ルーシー・リーはウェッジウッドから依頼されてジャスパーウェアを 制作しました。プロトタイプは全部でカップ18点、ソーサー3点の合計21点が 残されています。 9月投稿の写真は2002年5月-9月に開催されたカナダトロントの がーディナー美術館での展示ですが、上の写真はトニー・バークス著の 「ルーシー・リー」に掲載されているものです。 フォルムも掻き落とし文様もいかにもルーシー・リーそのもの。デザインが 美しく、何故ウェッジウッドでの量産が実現しなかったか大きな謎です。

ルーシー・リーとウェッジウッド

ルーシー・リーは生涯に一度だけ陶器のデザインを手がけたことがありました。 ウェッジウッドがルーシー・リーにコーヒーカップとソーサーのデザインを 依頼したのです。 ウェッジウッドから送られてきた粘土を使ってルーシーがデザインしたのは この写真を含む20数点のプロトタイプでした。いかにもルーシー・リーらしい シンプルで美しい形です。 実際は写真から受ける印象より小振りで、手のひらにすっぽりと包み込むことが できるほど、薄い繊細な器です。結局理由が明らかでないままに実現することは ありませんでした。ルーシーはこの出来事について言葉を残していませんが、 いくばくかのお金を受け取る替わりに、作品をすべて戻して欲しいと言い、 これらのプロトタイプを最後まで工房に残していました。 ハンス・コパーは、コーヒーポットやミルクジャーなど、セットすべてを 作ってからプレゼンテーションしたほうが良かったかもしれない、と語ったと 伝えられていますがこの作品が生産化されなかったことはデザイン界にとって 大きな損失であった、これが実現されていたら20世紀のデザインを大きく 変えていただろう、と「ルーシー・リー」の著者トニー・バークスは 書いています。 ルーシー・リーが1995年に亡くなったあと、これらはオークションに かけられましたが、管財人たちの意向で作品はばらばらになることなく、 ノーリッチにあるセインズベリーセンターにまとめて納められました。

ハンス・コパーとルース・ダックワース

7月の初めにイギリス、ウェールズ地方のアベイストウィスというところで セラミックフェスティバルが開かれました。アメリカのNCECA(エヌシーカ、全米 陶芸教育会議)とよばれる催しに似た陶芸家の一大イベントです。 そこにアメリカからルース・ダックワースが招待されレクチャーを することになっていた、と誰もが信じて楽しみにしていたのですが、 空港まで行って出国できなかったというのです。3週間前にパスポートが 切れていてそれに気がつかなかったことが原因でした。 そこで彼女のエイジェントであるシーア女史が変わってレクチャーを行い、 その最後にルース・ダックワースがアメリカから電話に加わり 質問に答えることになりました。 ルース・ダックワースは現在88才ですが、コミッションをまだ沢山 かかえ、作陶を続けています。 会場から「貴女の一番好きな陶芸家は誰ですか?」と質問があがりました。 「私の好きな陶芸家?もちろんハンス・コパーよ。彼はすばらしい アーティストでした。ハンス・コパーの作品は本当に美しい。 すばらしい作品を創るすばらしい人でしたよ」 ルース・ダックワースはルーシー・リーやハンス・コパーと同じように、 ナチスを逃れてイギリスに亡命した一人でした。ドイツのハンブルグにユダヤ人 として生まれ育ちましたが、ホロコーストの困難な時代でした。 「親友が突然、口をきいてくれなくなりました、彼女はナチスでした」 17才の時家族でイギリスに亡命、リバプールアートスクールに入ります。 面接の時、校長に何を勉強したいか聞かれ、 「デッサン、絵画、彫刻と答えたらその中から選ばないといけないと 言われました。だから、何故?ミケランジェロは全部を学んだでしょう、と 言ったの。私はとても未熟な17才でした」 1960年代なかば、ハンス・コパーがアメリカのシカゴ大学から陶芸を 教えて欲しいと依頼を受けました。しかしハンスは断り、その替わりに ルース・ダックワースが招待されたのです。それ以降ダックワースは アメリカで作陶を続けています。 ダックワースはルーシー・リーよりハンス・コパーの作品に、より近い物を 感じる、と語っていますが、「創ることよりほかにおもしろいと思うことは ない」という言葉に、88才まで作陶を続けたルーシー・リーの姿勢が 重なります。

ハンス・コパーの燭台

ロンドンから電車で約2時間北にいくとコベントリーという街があります。 16世紀に建てられた大聖堂は第二次大戦の爆撃によって1940年11月14日に 破壊されてしまいました。 外壁だけ残されていますが、廃墟に隣接して バージル・スペンスによって設計されたのが現在のコベントリー大聖堂です。 ハンス・コパーはバージル・スペンスに委託を受けて燭台を制作しました。 今も祭壇の両脇に3本ずつ、設置されています。 いかにもハンスらしいシンプルな、それでいて表情豊かな、美しい燭台です。 また、チャペルの一つに、黒い燭台も2点、置かれています。これは以前 持ち運びして実際にミサに使用していたそうですが、ハンス・コパーの 作品があまりに高価になったために、今はテーブルにとりつけてあるとの ことです。 また裏手にまわるとコンクリートで作られた大きな花生けがあります。 これもハンス・コパーの作品です。ハンスはこれに実際に花を生けて欲しい と伝えたそうですが、大きすぎるために、今ではフラワーフェスティバルなどの 機会に使われるだけだそうです。 7個残されており、庭で鉢の替わりに使われています。 sora記

バーナード・リーチ最後の手紙

ルーシー・リーはバーナード・リーチと生涯良い友人関係を保っていたことが 知られていますが、リーチとあれほど親しく教えを受ける環境にいながら 独自の作風を開花させ生涯自分自身の、他の誰のものでもない独自の作品を 作り続けました。 これにはハンス・コパーの励ましと助言が大きな役割を担っていると 思われますが、リーチほどのイギリス陶芸界の重鎮と親交を保ちながら その影響力から自由であると言うことはかなり特異なことと言えるでしょう。 作風は全く異なる二人ですが、生涯友好を暖め、時には過度とも思える リーチの友情にルーシー・リーはいつも答えました。 何月何日何時何分、パディントン駅の何番ホームに到着する、という リーチのルーシー・リーに宛てたはがきがいくつか残されています。 そのたびにルーシー・リーは駅まで出迎えに行ったのでした。 リーチが友人以上の気持ちをルーシー・リーに抱いていたことも 知られています。それは2005-2007年ニューオータニ美術館、 とちぎ蔵の街美術館、静岡アートギャラリーを巡回したルーシー・リー 「器に見るモダニズム」展に出品されていたリーチのルーシー・リーに 宛てた手紙からも推察されます。 手紙とは、リーチが亡くなる3週間前に秘書によって口述筆記された ものです。秘書がその手紙を出そうとした時、妻のジャネット・リーチから、 「出す必要はありません。(日本の友人たちも含めて)必要な人には 私から連絡します」と言われて廃棄したものでした。 けれど、あとになって秘書は「ジャネットがなんと言おうと、私は自分の 良心に従って彼の最後の手紙を貴女に届けるべきでした。これは あのときの口述筆記をやっと探し出してお送りするものです」という コメントを添えてルーシー・リーに届けました。 内容は  「私の親愛なるルーシー  身体の具合はいかがですか?少しでも良くなっていることを、そして  会えるよう祈っています。  神様が今朝僕のしっぽに金の粉を振りかけたよ※。  僕の為に祈ってほしい。  いつも僕のすべての愛を込めて。バーナードより」 (※これはリーチ特有の詩的表現だとする説と、死を意識したもの、 という説の両方があります。)

ルーシー・リーとウィーン

photo by Paul Dauer ルーシー・リーはオーストリアのウィーンで生まれ育ち陶芸を学んでいます。 ナチスの台頭とともに大きくなったユダヤ人迫害を逃れて夫とともに ロンドンに渡り、1995年に亡くなるまでその後の一生をハイドパーク近くの アルビオン・ミューズで過ごしました。 故郷のオーストリアで個展を開く話が幾度か出ましたが、そのつど ルーシー・リーは、きっぱりとウィーンでの開催を拒否しました。 どのような思いがあったのか、今となってはわかり得ませんが、ルーシーは ロンドンに渡った時点で、オーストリア人であることからきっぱりと 決別したように見受けられます。イギリスを愛しイギリスに帰化できた ことを喜び、イギリス人であることを誇りにし感謝していました。 ルーシー・リーの唯一現存するBBCのフィルムをプロデュースした シリル・フランケルはウィーンで展覧会を開催したいとルーシー・リーに 申し入れていますが、「私が死んだらいいわよ」と言われた、と 記しています。 ウィーンの人たちが失った偉大なものを見せたいと願っていた シリル・フランケルは、ルーシー・リーが亡くなって4年目にやっと それを実現させました。 ウィーンの工芸美術館MAKのディレクターからの要請でシリル・フランケルが 企画して故郷のウィーンで初めてルーシー・リーの展覧会が開かれたのは 1999年のことでした。

カナダのルーシー・リー展 Hans Coper, Lucie Rie and Their Legacy

「ハンス・コパー、ルーシー・リーとその継承者たち」展                   Gardiner Museum in 2002 見事な作品群でしょう! カナダのガーディナー美術館でのルーシー・リーとハンス・コパーの展覧会 展示風景です。 欧米の美術館は特別展でない限り写真を撮って良いところが多いですが、 この時はオープニングレセプションだったので広報の意味も大きかったのだと 思います。これほど濃縮された空間を撮ることができてラッキーでした (腕が良ければもっと良かったのですが)。 一点一点をゆとりをもって見せるのも(基本的にはそうあるのが 望ましいと思います)すばらしいですが、狭いスペースに数を並べると いうディスプレイも、見る人を圧倒させる力があるものだと感じました。 ルーシー・リーは晩年になるほど華麗な色あいの作品が増えます。彼女 が生まれ育った時代、エゴン・シーレやクリムトが活躍した大きな芸術の うねりの中のウィーンが色濃く出ているように思えます。 日本の美術館でのコレクションに彼女の作品がかなり増えてきているようです。 上の2枚にある作品についてはいつか又書きたいと思いますが、今回は 一番下の、ルーシー・リーの作品について。 一番右の高台の高い鉢は東京近代美術館で最近購入した作品と同じタイプ です。その左のグリーン釉薬にブロンズの鉢は今静岡アートギャラリーで 展示されている杉山コレクションとおそらく同じものです。 その左、薄エメラルドグリーンの背の高い花生けは日本で見かけたことは まだありません。同じタイプの真っ白の花生けがロンドン郊外のノリッチ にあるセインズベリー視覚芸術美術館に所蔵されています。盛り上がったドット 模様のスタイリッシュで暖かい魅力のある作品です。 手前のフェルール文様(筆の金輪でつけた模様)の鉢は同じタイプが やはり静岡で展示されています。信楽の「静寂の美」展で人気が高かった 美しい色合いです。 その左の象嵌の鉢もルーシー・リーの典型的な技法の一つです。 エイブベリーの博物館で先史時代の鳥の骨で描いた器を見たことで この模様を始めたということですが、より複雑な編み目模様の鉢があります。 白釉薬を掻き落としマンガン釉薬を象嵌した内側、外側はマンガン釉の 掻き落としを施した作品なども数多く残しています。 ルーシー・リーの器は静かな

Alvion Mews アルビオン・ミューズ

          上の写真は 2001年のアルビオン・ミューズ、下は2002年 ルーシー・リーは1939年、ナチスの迫害を逃れてロンドンに渡りました。 夫ハンスはアメリカ目ざしましたがルーシーはロンドンに残り、ハイドパーク 近くのアルビオン・ミューズに小さな工房兼住居を求めました。そして95年 に亡くなるまでその生涯をそこで過ごしました。アルビオン・ミューズの 美しさは誰もが口にするところですが、私が最初にそこを訪れたとき、 雨あがりの石畳はしっとりと輝くような美しさでした。 ミューズ(小路)は住人しか行き来のない奥まったところにあり、 誰がきても誰かが見ているような行き止まりの狭い路地にあります。 ハイド・パークから一本入っただけなのにその喧噪からは遠くひっそり としてまるでルーシー・リーが戸口に現れるような錯覚に捕らわれました。 ルーシー・リーが亡くなった後アパートは人手に渡り、現在は 「元ロック歌手」が住んでいます。棟続きの2軒も購入してスタジオに 使うようだ、植木は伸ばし放題だ、などと近くの住人は噂しています。 アパートの新しい住人は植木は伸ばし放題で、美しかったドア周りの木は 手入れがされていないし、おまけに木にはクリスマスのようなライトが 飾られて夜にな るとチカチカと明かりが灯る、と近所の評判はあまり よくありません。 ルーシー・リーが住んでいた頃の面影はドアのあたりにかすかに残るだけ です。そのドアももうすぐ木に埋もれてしまいそうですが。 けれどアルビオン・ミューズそのものは十年一日のごとく静かな佇まいを 今に留めています。

ルーシー・リー展バスツアー企画

静岡市立の 静岡アートギャラリー で ルーシー・リー展が開催されています (2006.12.12〜2007.1.28)。東京のニューオータニ美術館、とちぎ蔵の街美術館 への巡回に続いて、静岡が本展覧会最後の会場となります。 各会場ごとに展示作品の一部に変更が加えられていますが、 今回は最終会場ということもあってハンス・コパーのすばらしい作品が展示 されています。台座の中にカップ形の容器が組み込まれている特徴的な作品 やスペードフォームと呼ばれる作品。大胆に刻まれたラインと深みのある釉薬が ハンス・コパーならではの表情に魅了されます。 静岡会場は高層ビルの3階に位置する静岡市の美術館でスタイリッシュな雰囲気を もち、壁に取り付けられたアクリルケースのルーシー・リーの作品をごく間近で 鑑賞することができます。また、リーチの影響を受けた黒い釉薬の器シリーズ、 ルーシー・リーならではの白い器シリーズ、また背の高い白い花生けは とちぎ会場で初めて公開されましたが、白い釉薬の中にほんのりと エメラルドグリーンのスパイラルが立ち上がる清楚で見事な一点です。 また日本初公開となるルーシー・リーの作品も2点あります。同じドロマイトの 釉薬を施しながら他の作品と全く異なる表情をもち、ルーシー・リーの 釉薬の妙に驚かされることでしょう。初公開のドロマイト釉花生はビロードの ような表情を持ち、思わず触れたくなるような暖かさを感じます。 今回のバスツアーはロダンの所蔵で有名な 静岡県立美術館 と 「画家の愛したやきもの」とHPにある ポーラ美術館 を加えた3館を巡ります。 静岡県立美術館ロダン館では 階段状になったスキップフロアには《地獄の門》 をはじめとして32点のロダンの彫刻が展示されています。 ポーラ美術館はご存じの方も多いと思いますが、箱根の仙石原に位置し、 植物体系を乱すことなく、という意図のもとにそのほとんどを地下に埋もれた 形で設計がなされ、地上部分は8メートルの高さに抑えられています。 企画展もさることながら、建物自体を見ることもおおいに楽しみです。 静岡は近くの芹沢けいすけ(漢字がこのコンピュータにない!)美術館や ビュッフェの美術館もあり、ゆったりと過ごしたいところですが、新宿を 朝でて日帰りの旅程ではとても回りきることが出来ません。今回はこの3館を 訪れる予定ですがそれ