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ハンス・コパーとルース・ダックワース

7月の初めにイギリス、ウェールズ地方のアベイストウィスというところで
セラミックフェスティバルが開かれました。アメリカのNCECA(エヌシーカ、全米
陶芸教育会議)とよばれる催しに似た陶芸家の一大イベントです。

そこにアメリカからルース・ダックワースが招待されレクチャーを
することになっていた、と誰もが信じて楽しみにしていたのですが、
空港まで行って出国できなかったというのです。3週間前にパスポートが
切れていてそれに気がつかなかったことが原因でした。

そこで彼女のエイジェントであるシーア女史が変わってレクチャーを行い、
その最後にルース・ダックワースがアメリカから電話に加わり
質問に答えることになりました。

ルース・ダックワースは現在88才ですが、コミッションをまだ沢山
かかえ、作陶を続けています。
会場から「貴女の一番好きな陶芸家は誰ですか?」と質問があがりました。

「私の好きな陶芸家?もちろんハンス・コパーよ。彼はすばらしい
アーティストでした。ハンス・コパーの作品は本当に美しい。
すばらしい作品を創るすばらしい人でしたよ」

ルース・ダックワースはルーシー・リーやハンス・コパーと同じように、
ナチスを逃れてイギリスに亡命した一人でした。ドイツのハンブルグにユダヤ人
として生まれ育ちましたが、ホロコーストの困難な時代でした。

「親友が突然、口をきいてくれなくなりました、彼女はナチスでした」

17才の時家族でイギリスに亡命、リバプールアートスクールに入ります。
面接の時、校長に何を勉強したいか聞かれ、
「デッサン、絵画、彫刻と答えたらその中から選ばないといけないと
言われました。だから、何故?ミケランジェロは全部を学んだでしょう、と
言ったの。私はとても未熟な17才でした」

1960年代なかば、ハンス・コパーがアメリカのシカゴ大学から陶芸を
教えて欲しいと依頼を受けました。しかしハンスは断り、その替わりに
ルース・ダックワースが招待されたのです。それ以降ダックワースは
アメリカで作陶を続けています。

ダックワースはルーシー・リーよりハンス・コパーの作品に、より近い物を
感じる、と語っていますが、「創ることよりほかにおもしろいと思うことは
ない」という言葉に、88才まで作陶を続けたルーシー・リーの姿勢が
重なります。

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