Skip to main content

Posts

Showing posts from 2017

「ルーシー・リーとハンス・コパー物語(LR&HC)」始めます

2009年から2011年にかけて期せずして同時期に、日本でルーシー・リーとハンス・コパーの展覧会が開催され美術館を巡回しました。国内はもちろん、海外でも日本に行けば二人のそれぞれの展覧会を見ることができると大きな話題になり、熱烈なファンやコレクター、美術関係者が来日しました。

このブログは2006年12月にスタートしましたが*、ここには古くからのルーシー・リー、ハンス・コパーのファンのみならず、若者の新たな鑑賞者が多く訪れてくださいます。その方たちから、もっと時代を追って作家の生涯をたどった、(スマートフォンで簡単に読めるような)読み物が欲しいとの声を多数いただいています。

そのご要望に応えて、「ルーシー・リーとハンス・コパー物語(仮題)」の連載(不定期)を1、2ヶ月中にこのブログで始める準備を進めています。

参照資料に、トニー・バークス著「ルーシー・リー」や「ハンス・コパー」の翻訳者・西マーヤの翻訳ノート、スライドレクチャーまた欧米での二人に関する資料などを用いて、二人の生涯を辿ります。

内容はそれらの抜粋、および二人の生い立ち、ナチスの迫害から逃れてたどり着いたロンドンでの出会い、バーナード・リーチを含む周辺の作家たち、コパーのスプリングガーデンへの移住、リーの晩年に至るまでの生涯を短文でご紹介します。

1989年に三宅一生さんが草月会館で開催された展覧会によってルーシー・リーを知り、魅せられてファンになった多くの方と共に、「ルーシー・リー、よく知らなかったけれどその作品に心を奪われた」という若い方たちにも楽しんでいただければと願っています。
                               by the blog author

*投稿時、「これ(展覧会)を機会にこのブログは始められましたが」と記載しましたが、正しくは2006年です、お詫びして訂正いたします。

ハンス・コパーの妻 ジェイン・ゲイトは写真家

ハンス・コパーは1954年、34才の時に写真専門学校の学生だったジェイン・ゲイトと知り合った。

二人でパリのブランクーシを訪ねたり(ブランクーシには会えなかった)、ハンスはディグズウェルのアーティスト工房に移ってからもロンドンのジェインとルーシー・リーを訪ねるために生まれて初めての車(ロンドンタクシーとして知られる黒の背の高い車)を買ったりしている。

ハンスはディグズウェルからロンドンに戻ると、ジェインとその二人の息子たちと暮らし始めた。ジェインはハンスの工房の隣に写真工房を持ち、商業写真の仕事を受け、またルーシー・リーやハンス・コパーの作品や工房の写真を多く記録した。

その時期に前後して、ジェインは日本も訪れている。友人家族と共に宮城、青森、秋田、能登、日本各地を2ヶ月以上にわたり旅をして、昭和の色濃い、地方での人や暮らしを生き生きと写し出している。

ハンスは47才の時、ジェインと共にフルームのスプリングガーデンに移り、ハンスはそこでヴィクトリア&アルバータ美術館での織の作家ピーター・コリングウッドとの二人展や、数々の展覧会出品作品を制作した。

ハンスとジェインは、ハンスが54才の時に正式に結婚し、ハンスが61才で亡くなるまで共にフルームで暮らした。

ジェインは今も一人で愛犬と共に暮らしている。

クーパー著「ルーシー・リー モダニズムの陶芸家」にあまりにも似た図録エッセイ −2 

さらなる驚愕の事実、とはこうだ。

展覧会図録にあるこの日本語訳の原文(英語)を読んでみた。驚くことに、エッセイの原文自体がEmmanuel Cooper『Lucie Rie: Modernist Potter』(2012年イェール大学出版)の原書そのままの箇所が多数ある。「箇所が多数ある」は控えめな言い方だ。3ページ足らずのエッセイであれだけの「そっくり文」があるのだ。いや、「そっくり文」は控えめな言い方だ。そっくり、ではなく、「そのままコピー」の文章なのだから。

まさに、クーパー本のうつし、のような文章。まさか、何か間違いだろう、あり得ないことだ、と思いつつ何度も英文を読む。でもクーパー本を参照とか引用という記載は一箇所のみ。日本語訳に書かれていたのと同じく(展覧会エッセイの「原文」なので当然のことだが)「註9」はクーパー本の引用とある。引用したのは、註9のこのセンテンスだけだよ、と言っている。

例えばこういう箇所もある。「註6」は、2014年に書かれた自身の文章を参照元と記載している。ところがそれは、クーパー本と一字一句同じだ。そしてクーパー本の発行は2012年だ。自身が書いたとする、その文章自体が、元はクーパー本を参照したもので、今回は意図して迂回させたのではないかという疑問が湧き上がる。

この、英文のエッセイを書いたオーストリア応用美術館の学芸員の方は、どういう経緯でどういう意図があってこれを書いたのだろう。日本で出版される図録は日本だけだから、クーパー本を読んだ人はいないだろう、と考えたのだろうか。いや、何かの間違いか、私の見方が間違っているのに違いない。公の美術館の、国を代表する美術館の学芸員が「コピーペースト」なんて不正をするわけがない。やっぱり私がどこかで見落としをしているに違いない。これは正しくオリジナルのエッセイであり、引用部分が多くてもどこかにそれをきちんと断っているに違いない、、、と私の思考は堂々巡りをしている。

もしも、もしもだが、私の疑問がまともであり本当にコピーペーストが行われたのだとしたら、ここには二重の不誠実がある。

ひとつは図録のエッセイ原文そのものが Emmanuel Cooper『Lucie Rie: Modernist Potter』からの(引用ではなく)借用(アンダーライン筆者)が多見され、その事実に対する記載がないこと。もうひとつ…

クーパー著『ルーシー・リー モダニズムの陶芸家』にあまりにも似た図録エッセイ −1

何人かの方からの指摘もあった。おかしいのでは?と。ヒュース・テンが関わっているのですか?と。

このようなことがあってもいいのだろうか・・・大きな驚きの中で2年以上経った。 この思いを書いてもいいものか・・・と迷いに迷った。
こんなことどうでもいいではないか、という気持ちもある。 展覧会が終わって2年以上経った今、もう書いてもいいのではないか、とも思う。
2015年4月に茨城県陶芸美術館で開催され、千葉市美術館、姫路市立美術館、郡山市立美術館、静岡市美術館を巡回した「没後20年ルーシー・リー展」図録のエッセイについてだ。
展覧会自体は、オーストリア応用美術館(MAK)に所蔵されていたルーシー・リーの学生時代の作品を含み、圧倒される点数の作品が展示されていた。図録は、2010−11年に6美術館を巡回した回顧展に出版された図録と対になるような体裁で作られている。
これから書く文章はあくまで展覧会図録の一エッセイについてであり、ルーシー・リーの作品に出会う機会を感謝こそすれ貶める意図は全くない。
展覧会も終わり、図録の文章を初めて読み始めて途中で、あれ?と思った。どこかでこれは前に読んだことがある、、、。その違和感は読み進むうちにますます大きくなり、一体これはどういうことだろう?と不思議な思いを禁じ得なかった。
図録にあるエッセイのひとつが、エマニュエル・クーパー著『ルーシー・リー モダニズムの陶芸家』日本語版にあまりにも似ているのだ。時にルーシーの旧姓「ゴンペルツ」を「ルーシー」に置き換えたりしているが。似ている箇所を両方で比べてみた。ほんの一部を挙げてみると、例えば:

例1 
展覧会図録 261ページ 陶芸は、金工やテキスタイル、ガラスと並んで、工業美術学校のなかでも最も人気のある科目だった。ある程度これは、学校が享受した高い評判と、1909年から1936年にわたって陶芸科を率いてきた学部長ミヒャエル・ポヴォルニー(1871−1954)の名声とその人柄によるものであった。ポヴォルニーはその手腕を認められ1912年に教授に就任すると、独自の専門学部を与えられた。ゴンペルツもそのひとりだが、学生たちはポヴォルニーを単に博識が高く親切な教師としてのみならず、温かみのある人物として親しみを持った。
クーパー著『ルーシー・リー モダニズムの陶芸家』日本語版41ページ 陶芸は金工やテキスタイル、ガラスと共に…

ルーシー・リーの鉢2点、銀座で展示

銀座の「懐食みちば」でルーシー・リーの鉢2点が展示されています(次の展示替え時期は未定)。今回は背の高い花生けは展示されていませんが、ルーシー・リーらしいピンクの掻き落としと溶岩釉の鉢です。いずれもルーシー・リーの特徴的な作品として数多くの展覧会に出品されてきたものです。

ルーシー・リーの登った丘、ハンス・コパーの遺灰

ルーシー・リーとハンス・コパーの友情はよく
知られたところです。

1981年6月、ハンスはフルームの自宅で亡くなりました。

昨年の夏、ハンス・コパーの遺灰がまかれた丘に行きました。
NHKの日曜美術館取材のときはだいたいの場所しか
わからなかったのですが、今回はコパー夫人のジェイン・コパーと
その息子が一緒でした。

ジェインの思い出すままに車を走らせ
まさにこの丘という場所に止めて車を降りました。

ここはハンス・コパーとジェインが家族や友人とよく
訪れ駆け回った場所といいます。その当時の写真がいくつか
残っています。若々しいジェインが子供達と走っている、、。

丘には牛や羊が放たれ、人が近づくと遠くに離れて
人間をじっと観察しています。実際にその場所に立つと
かなり急な斜面です。

61歳で亡くなったハンスは生前、この丘に
遺灰を撒いて欲しいとジェインに遺言していました。
火葬されてのち、ジェインはルーシー・リーと
一緒に遺灰を入れた缶を持ってこの丘に登りました。

途中で牡牛に追われて逃げ、遺灰を撒き散らしながら
ここを駆け上ったという。いかにもルーシー・リーらしい
エピソードもあるので今度ご紹介しましょう。

それから14年後、ルーシー・リーの遺灰も同じ丘に
撒かれました。