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ルーシー・リーの登った丘、ハンス・コパーの遺灰



ルーシー・リーとハンス・コパーの友情はよく
知られたところです。

1981年6月、ハンスはフルームの自宅で亡くなりました。

昨年の夏、ハンス・コパーの遺灰がまかれた丘に行きました。
NHKの日曜美術館取材のときはだいたいの場所しか
わからなかったのですが、今回はコパー夫人のジェイン・コパーと
その息子が一緒でした。

ジェインの思い出すままに車を走らせ
まさにこの丘という場所に止めて車を降りました。

ここはハンス・コパーとジェインが家族や友人とよく
訪れ駆け回った場所といいます。その当時の写真がいくつか
残っています。若々しいジェインが子供達と走っている、、。

丘には牛や羊が放たれ、人が近づくと遠くに離れて
人間をじっと観察しています。実際にその場所に立つと
かなり急な斜面です。

61歳で亡くなったハンスは生前、この丘に
遺灰を撒いて欲しいとジェインに遺言していました。
火葬されてのち、ジェインはルーシー・リーと
一緒に遺灰を入れた缶を持ってこの丘に登りました。

途中で牡牛に追われて逃げ、遺灰を撒き散らしながら
ここを駆け上ったという。いかにもルーシー・リーらしい
エピソードもあるので今度ご紹介しましょう。

それから14年後、ルーシー・リーの遺灰も同じ丘に
撒かれました。


Comments

pannonica said…
初めまして。ルーシー・リーとハンス・コパーを愛する者です。来年、ほぼん十年ぶりにイギリスに行く機会がありそうで(そのん十年前、まだお元気だったルーシーにお会いすることができました)、以前NHK日曜美術館で知った、この、二人が眠る丘にそっと行ってみたいと考えています。あちこち検索した末にこちらにたどり着いたのですが、もし、もし、ご迷惑でなければどの辺りか(できれば)住所情報をお教えいただけないでしょうか?直接ご連絡したいのですが、方法がわからず仕方なくこちらに書き込みいたしました。ご無礼お許しください。
sora said…
pannonicaさま
メールを差し上げましたがもしかしてご覧になっていないかと思い投稿させていただきました。もしよろしければ、ブログ主宰のヒュース・テン(03-5930-1133)にご連絡いただければと思います。sora

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