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ルーシー・リーとハンス・コパー物語 16  ナチスの台頭とユダヤ人迫害

ニューヨーク・タイムズで「運命が二人の出会いをもたらした・・・」と紹介されたイギリスの陶芸家ルーシー・リーとハンス・コパーは、バーナード・リーチとともに20世紀陶芸の巨匠と目されます。二人はナチスから逃れてロンドンで出会いますが生涯稀有のパートナーシップと友情で結ばれ、彼らの作品はお互いを抜きに語ることはできないと言われます。その二人の物語を紹介していきます。

自分の工房と窯を備えたルーシーが一層作陶に没頭しつつあったその頃、政治的には緊迫した動きが起こりつつあった。


ドイツが国際連盟から脱退し、ドイツのユダヤ人が医療関係の職に就くことが禁じられ公民権が剥奪された。しかしそのような状況であっても、オーストリアの多くのユダヤ人はその脅威を正確に認識していなかったかのようだった。ルーシーの両親もまた逼迫した環境にあることを認識していなかったように見える。

多くのユダヤ人の間では、オーストリアでナチス政権のような政府は起こりえないしそれほど悪い状況になるわけはないと楽観的な見方が蔓延っていた。戦争の足音はいつの世でもひっそりと早足でやってくるかのようだ。

ドイツとオーストリアの関係は悪化し、ヒトラーの要求に応じないオーストリアのフォン・シュシュニック首相は辞任に追い込まれ、やがてある日ドイツ軍がオーストリアとの国境を超えた。ヒトラーがウィーンに入り、ヒトラーはウィーンの市民に熱狂的に迎えられた。ドイツによるオーストリア併合「アンシュルス」は予期しないスピードで進められ、ユダヤ人迫害はドイツ国内より厳しく進められた。

ルーシーが今まで親しくしていた友人たちもユダヤ人であるルーシーに突然声をかけなくなったと、のちにロンドンに亡命したルーシーは、ルーシーの伝記を書いたトニー・バークスに語っている。ユダヤ人の女性たちは一列に並び道路に跪いての清掃を強制されたり、ナチス親衛隊による昼夜を問わないユダヤ人の大量逮捕が始まった。


ルーシーが近しく親しんでいた祖母のヘルミーナ・ヴォルフは86才で亡くなり、続いて胃癌と診断された父親が亡くなり母のギーゼラ・ゴンペルツも1937年に亡くなった。大好きな叔父のサンダー・ヴォルフもイスラエルのハイファに逃れた。今やルーシーたちをウィーンに留めるものはなかった。

ルーシーは建築家エルンスト・プリシュケのデザインした家具や調度品をロンドンに送る手配をして、亡命の…
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ルーシー・リーとハンス・コパー物語 15 フリッツ・ランプル

ニューヨーク・タイムズで「運命が二人の出会いをもたらした・・・」と紹介されたイギリスの陶芸家ルーシー・リーとハンス・コパーは、バーナード・リーチとともに20世紀陶芸の巨匠と目されます。二人はナチスから逃れてロンドンで出会いますが生涯稀有のパートナーシップと友情で結ばれ、彼らの作品はお互いを抜きに語ることはできないと言われます。その二人の物語を紹介していきます。

この頃知り合った、ルーシーにとって重要な人物の一人となる、詩人でガラス作家でありビミニ・ギャラリーを創設したフリッツ・ランプルがいる。のちにルーシーがロンドンに亡命して仕事がなかった時、ボタン制作の仕事を提供し、また時に花束を持って工房を訪れルーシーを励ました。


ビミニの名はハインリヒ・ハイネの詩から取られたといい、ランプルは自身も詩人として詩を書いてルーシーに送っている。

トニー・バークスによると、ルーシーが亡くなったとき、唯一寝室の壁に掛けられていたのはフリッツ・ランプルの写真だったという。

ウィーン時代、ビミニギャラリーを訪れるファッショナブルな顧客たちはまた、ルーシーのシンプルなデザインのポットを買い求めた。

そしてフリッツはロンドンに亡命してからもルーシーを助け、愛情を注ぎ、二人が恋人であったことをエマニュエル・クーパーの本は明らかにしているが、当時それは秘密に包まれていた。
フリッツ・ランプルはまた幅広い交友関係を持ち、波動力学を提唱したルートヴィヒ・シュレジンガーとも交流があった。のちに彼をルーシーに紹介したのも恐らくフリッツ・ランプルであったろう。ルーシーはシュレディンガーと物理学の話をする時間を楽しみ、シュレディンガーはルーシーに詩を書いて送ったりしている。

ルーシー・リーとハンス・コパー物語 14 ルーシーのポートレート写真

ニューヨーク・タイムズで「運命が二人の出会いをもたらした・・・」と紹介されたイギリスの陶芸家ルーシー・リーとハンス・コパーは、バーナード・リーチとともに20世紀陶芸の巨匠と目されます。二人はナチスから逃れてロンドンで出会いますが生涯稀有のパートナーシップと友情で結ばれ、彼らの作品はお互いを抜きに語ることはできないと言われます。その二人の物語を紹介していきます。


サンダー叔父のアパートを借りられることになったハンスとルーシーはプリシュケに家具のデザインを依頼した。家具調度品ができあがり、ようやく住む準備が整ったのはルーシーの実家で3年弱を過ごした後の1929年の事だった。

ある時、ルーシーたちの住むアパートに写真家のロッテ・マイトナー=グラーフが越してきてルーシーと友人となった。当時、著名なポートレート写真家だったロッテ・マイトナーはルーシーの美しさに魅了され、ルーシーをモデルとしたいくつかの写真を残している。
この頃ルーシーは、旧姓のゴンペルツと夫ハンスの姓リーの両方を使い、作品にはルーシー・リー=ゴンペルツ( LRG)とサインした(後に「ゴンペルツ」はドイツを想起させるということで「ルーシー・リー(LR)とサインするようになった)。

また、素焼きをせず生の作品に直接釉薬をかける一度焼成の作品は、粘土素地、化粧泥、釉薬が反応しあって独特の表情を作る。ルーシーはその方法を後にロンドンに渡ってからも生涯続けた。


ルーシー作陶に没頭し、ハンスは食事が終わると仲間とカフェに出かける日常がルーティーンになりつつあった。



ルーシー・リーとハンス・コパー物語 13 ヴォルツァイレ24番地    

ニューヨーク・タイムズで「運命が二人の出会いをもたらした・・・」と紹介されたイギリスの陶芸家ルーシー・リーとハンス・コパーは、バーナード・リーチとともに20世紀陶芸の巨匠と目されます。二人はナチスから逃れてロンドンで出会いますが生涯稀有のパートナーシップと友情で結ばれ、彼らの作品はお互いを抜きに語ることはできないと言われます。その二人の物語を紹介していきます。

1926年6月に工業美術学校を卒業したルーシーは9月にハンス・リーと結婚。ほぼ三年をルーシーの実家で新婚生活を送り、やがて叔父サンダーの所有するヴォルツァイレ24番のアパート最上階を提供してもらえることになった。


この時ルーシーは椅子を購入したことで知り合った(工業美術学校のときに知り合ったという説もある)新進の建築家エルンスト・プリシュケ(1903-1992)にアパートの家具デザインを依頼した。プリシュケは後にオーストリアを代表する建築家として活躍し、ルーシーの家具は現在オーストリア王立家具博物館にプリシュケの書いた図面と共に展示されている。
ルーシーはこのヴォルツァイレのアパートに作った工房で作陶に没頭し、モンザ国際展やロンドンのオーストリア美術展にも出品して、ミラノの展覧会で金賞、パリ国際展で銀賞を受賞するなど、ヨーロッパの陶芸家としてキャリアを積んでいた。
工房には窯がなかったのでルーシーは工業美術学校まで生の作品を運んで焼成したが、運ぶ距離を節約するため素焼きをせず直接本焼きした。これがルーシーの作品に特徴ある表情を作る「一度焼成方式」のきっかけになったとルーシーはトニー・バークス(ルーシーの伝記を書いた)に語っている。










ルーシー・リーとハンス・コパー物語 12 ルーシーの結婚

ニューヨーク・タイムズで「運命が二人の出会いをもたらした・・・」と紹介されたイギリスの陶芸家ルーシー・リーとハンス・コパーは、バーナード・リーチとともに20世紀陶芸の巨匠と目されます。二人はナチスから逃れてロンドンで出会いますが生涯稀有のパートナーシップと友情で結ばれ、彼らの作品はお互いを抜きに語ることはできないと言われます。その二人の物語を紹介していきます。

1926年、ヨーロッパで最初の革新的な美術学校となった工業美術学校を卒業すると、才能があり勉強熱心であったルーシーは、ポヴォルニーから誘われて彼の工房に場所を借りて自分の仕事をすることが出来た。また、エッセンでの国際展にルーシーのポットが展示されたこともあり、独立するに十分な注文も受けていた。

一方ルーシーは淡い思いを抱いていたエルンスト・リーが山の遭難事故で亡くなって以来、喪失の思いを共有していたエルンストの弟ハンスと気持ちが近しくなっていた。家族ぐるみの付き合いが続き、やがて卒業と同時に結婚することが進められた。夫となるハンスは、フェルト帽工場のマネジャーとして有能で、将来が約束されていた。ルーシーも制作を続けていこうとしていた。

強い結びつきで知られるユダヤ人家族の一人娘として、ルーシーの実家の一部を改造して新婚の二人が住むことは、とりあえずの若いカップルの堅実的な選択であったのかもしれない。


二人がルーシーの実家に住むことで、ルーシーへの器の注文を父や母が代わりに受けることもあった。カラフルなフィギャーや装飾性の高いツボなどで名高いゴールドシャイダーセラミックス社が、ルーシーの作品の一点を製品化して1928年に展示したとの記録もあり(母ギーゼラからルーシーに宛てた手紙)、後にウェッジウッドからの申し出の経緯を考えると興味深い。
ただし伝統的な妻になることを期待する両親との同居は様々な葛藤も生んだ。ルーシーは両親の定期的な休暇によって家や使用人のの管理を任されることや、家族への義務、ゴンペルツ家に夫ハンスが溶け込むことを要求されると感じていた。また作品制作にもっと時間を使いたいと望んだ。
3年がそのように過ぎ、ある時叔父のサンダー・フォルフから救いの手が差し伸べられた。

ルーシー・リーとハンス・コパー物語 11 ウィーン時代のルーシーの釉薬

ニューヨーク・タイムズで「運命が二人の出会いをもたらした・・・」と紹介されたイギリスの陶芸家ルーシー・リーとハンス・コパーは、バーナード・リーチとともに20世紀陶芸の巨匠と目されます。二人はナチスから逃れてロンドンで出会いますが生涯稀有のパートナーシップと友情で結ばれ、彼らの作品はお互いを抜きに語ることはできないと言われます。その二人の物語を紹介していきます。

当時、ポヴォルニーの作るフィギャーやクラスメートの作るカラフルで装飾性に富んだ作品が主流を占めていた陶芸環境にあって、ルーシーの作る器がシンプルなフォルムや色であったことは特異なことに思えるが、その点ではホフマンのミニマルな形やモダニズムに、また初期のウィーン工房の精神に、より影響を受けたと思われる。
ルーシーの関心はもっぱら釉薬にあり、工業美術学校時代、その実験に没頭していた。その頃書き留めた実験の釉薬ノートの数々は、のちにロンドンに亡命してからのボタン作りや作品に大いに生かされている。
ルーシーの釉薬ノートには工業美術学校時代に行った数々の実験の結果やこの頃開発した釉薬が細かく書かれている。その釉薬ノートを詳しく調査したオクスフォード大学の上級研究員ナイジェル・ウッド氏はルーシーが「しばしば釉薬そのものを装飾とした」と表現している。


通常「ピンホールを美しいと思う陶芸家はまれであるだろう。しかしルーシーはこの減現象に日を見出す鋭い洞察力と完成を持ち合わせていた・・・(中略)・・初期の頃の家庭用食器に使用した標準的な透明釉に酸化亜鉛が高い比率で含まれていたためピンホールが発生したのかもしれない。また、釉薬を刷毛で塗る技法もピンホールを発生させやすい。特に乾燥した生地に釉薬を塗る場合よりも、釉薬を重ね塗りするときに空気を取り込んでしまうことが多い。ルーシーの釉薬は特別粘着性が高いので、窯にいれても空気の泡が残り、表面に細かい空気穴を大量に残しやすい」(「生誕100年記念ルーシー・リー展 静寂の美へ」カタログのナイジェル・ウッド氏エッセイより)
後にルーシーは「溶岩釉」として知られる、シリコンカーバイドを使った厚い泥漿・釉薬を好んで使用するが、すでにウィーン時代に、空気の泡から生まれるこのピンホールと通じる表情が見られる。

ルーシー・リーとハンス・コパー物語 10 ポヴォルニーの授業

ニューヨーク・タイムズで「運命が二人の出会いをもたらした・・・」と紹介されたイギリスの陶芸家ルーシー・リーとハンス・コパーは、バーナード・リーチとともに20世紀陶芸の巨匠と目されます。二人はナチスから逃れてロンドンで出会いますが生涯稀有のパートナーシップと友情で結ばれ、彼らの作品はお互いを抜きに語ることはできないと言われます。その二人の物語を紹介していきます。

工業美術学校でルーシーは、陶芸に関する知識をミヒャエル・ポヴォルニーから授かった。ポヴォルニーの授業はかなり厳しいものだったが、陶芸コースは高い国際的評価を得ており海外からの学生も多数学んでいた。その一人、アメリカのクリーヴランド美術学校の生徒だったヴィクトール・シュレッケンゴーストが当時のポヴォルニーの教えについてエピソードを残している。
シュレッケンゴーストはすでに母国で陶芸で熟練者であったにもかかわらず、ポヴォルニーは彼に、サイズを変えて一定の形をろくろ挽きする課題を与えた。来る日も来る日も6週間の間「ポヴォルニーは私の挽いた器の形が違っていないか2つに切って立証した・・・ある日ついに栄光の日がやってきた。ポヴォルニーはポットを見て、一つのポットを裏返し、学校のサインをそこに押して『さあ、これで焼成していいよ。これ全部が学校の財産だとわかっているだろう?もし家に持って帰りたかったら買わなくちゃいけないよ』と言った。それは最高の日となった」
ルーシーも同じような訓練を受けたことだろう。ルーシーの伝記を書いたトニー・バークスに、彼女はポヴォルニーを尊敬し、感謝していると語っている。