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Showing posts from September, 2018

ルーシー・リーとハンス・コパー物語7 工業美術学校入学

ニューヨーク・タイムズで「運命が二人の出会いをもたらした・・・」と紹介されたイギリスの陶芸家ルーシー・リーとハンス・コパーは、バーナード・リーチとともに20世紀陶芸の巨匠と目されます。二人はナチスから逃れてロンドンで出会いますが生涯稀有のパートナーシップと友情で結ばれ、彼らの作品はお互いを抜きに語ることはできないと言われます。その二人の物語を紹介していきます。

ルーシー・ゴンペルツは、メーヒェン・ギムナジウム(中高一貫校に近い)を卒業する頃、亡くなった次兄ポールやサンダー伯父の影響もあり芸術の道に進みたい、彫刻を勉強したい、という気持ちが強くなっていた。

サンダー伯父に招待されたヨーロッパ旅行でイタリアの芸術にも触れ、また、アイゼンシュタットで発掘されたローマ時代の壺にも魅せられたルーシーは、両親の望む医者や科学者ではなく、応用美術博物館とそれに付随する工業美術学校が自分の進む道であると思った。

ゴンペルツ家はウィーンの中心であるフォルク通りにあったので、通りを下っていけばオーストリア応用美術博物館があり、その裏手に廊下続きで工業美術学校があった。リベラルな家庭に育ったルーシーにとっても彫刻家になりたいという思いを実践することには勇気が必要であったことだろう。

しかし実際に工業美術大学に進学し授業が始まると、たまたま入った教室のろくろ作業に魅せられてしまう。「私はろくろの虜になってしまいました」と後に、ルーシーの伝記を書いたトニー・バークスに語っている。

工業美術学校でルーシーは、彼女のキャリアと釉薬の化学的知識に大きな影響を与えることになる二人の指導教官に出会った。

ルーシー・リーとハンス・コパー物語 6 私は男性によって作られた

ニューヨーク・タイムズで「運命が二人の出会いをもたらした・・・」と紹介されたイギリスの陶芸家ルーシー・リーとハンス・コパーは、バーナード・リーチとともに20世紀陶芸の巨匠と目されます。二人はナチスから逃れてロンドンで出会いますが生涯稀有のパートナーシップと友情で結ばれ、彼らの作品はお互いを抜きに語ることはできないと言われます。その二人の物語を紹介していきます。

ルーシー・リーは後にトニー・バークスのインタビューに答えて「私は男性によって作られた」との言葉を残している。この言葉が独り歩きしてさまざまな解釈を生むことを恐れずに言えば、ルーシーの生涯に重要な影響を及ぼした男性たちの名前をいくつも挙げることができる。兄のポール、エルンスト・リー、ハンス・リー、バーナード・リーチ、エルンスト・プリシュケ、フリッツ・ランプル、そしていうまでもなく後に出会うハンス・コパー。

しかし少女時代のルーシーに最も影響を与えた一人は、間違いなく伯父のサンダー・ヴォルフといえるだろう。生涯独身で自由に世界を旅し、母の生家アイゼンシュタットのワイナリーを兄とともに相続して発展させ、のちにアイゼンシュタットの建物を博物館にした伯父。

アイゼンシュタットの敷地からはローマ時代の遺物や陶器の破片が数多く発掘され、サンダー伯父からもらってそのうちのひとつをルーシーは生涯そばに置いていた。世界各地を旅行していたサンダーは、様々な文化圏の工芸品を収集し持ち帰っていた。ルーシーは伯父の土産話を聞きその収集品をを見て育った。

ルーシーは1921年、ポールの勧めてくれた美術の道を進もうという意思を持って、大学出願資格のある優秀な成績で学校を卒業した。

サンダーは、エルンストが亡くなったことのルーシーの悲しみを思いやり、また卒業祝いを兼ねてルーシーとその従姉妹たちをヨーロッパ旅行に招待した。サンダー伯父はそれまでも、スイスでのスキー旅行などに彼女たちを連れ出していたが、今回の冒険と興奮に満ちたその野心的旅行計画は、過保護の父母を大いに心配させた。しかしルーシーにとっては「伯父と一緒にアマゾンや南アフリカにも行けば良かった」と思わせるほどの刺激的な旅だった。




ルーシー・リーとハンス・コパー物語 5 二人の男性の死- 2

ニューヨーク・タイムズで「運命が二人の出会いをもたらした・・・」と紹介されたイギリスの陶芸家ルーシー・リーとハンス・コパーは、バーナード・リーチとともに20世紀陶芸の巨匠と目されます。二人はナチスから逃れてロンドンで出会いますが生涯稀有のパートナーシップと友情で結ばれ、彼らの作品はお互いを抜きに語ることはできないと言われます。その二人の物語を紹介していきます。

1918年、オーストリアーハンガリー軍は壊滅的な敗北を期し、無条件降伏を申し出てイタリアと胸腺協定が調印された。敗戦国の都市であるウィーンは飢餓や病気が蔓延し、芸術分野で活躍していたクリムトやエゴン・シーレもその犠牲となった。

政治的にはまだまだ不安定であったが、市民生活は徐々に回復し、ルーシーたちはアイゼンシュタットの祖母から野菜など食べ物を調達して従来の生活にもどりつつあった。

リー家とゴンペルツ家と家族ぐるみの付き合いがあった。リー家の二人の兄弟エルンストとハンス、そしてゴンペルツ家のテディーやルーシーはスキーや様々なアウトドア・スポーツで一緒に過ごす機会が多くあった。

兄のエルンスト・リーはウィーンの物理学助教授として頭角を現し、また卓越したスキーヤーでもあった。スキーの技術や科学的な議論を通じてルーシーはエルンストに好意以上の気持ちを抱き始めていた。

ルーシーが19才になった夏のある日、エルンストとその友人がスキーで行方不明になった。予定を2日過ぎても戻らず、弟のハンスは捜索に出かけた。そこで発見したのは氷河で凍死しているエルンストだった。

ルーシーはエルンストの弟ハンスに対してお悔やみの手紙を送ったが「ひどい喪失に苦しむ誰かに対して、虚しく響く言葉以外に適切な言葉を探すことはあまりに困難で・・・(長いことお悔やみの手紙を書けなかった)」という短い文章はおそらく自分自身に向けたものでもあっただろう。

兄、ポールの死、深い気持ちを抱いていたエルンストの死、それはルーシーの少女時代にに大きな喪失感を残した。

そんな時、アイゼンシュタットのあととりであった母方の伯父、サンダー・ヴォルフがルーシーに大きな救いの手を差し伸べた。





ルーシー・リーとハンス・コパー物語4 二人の男性の死-1

ニューヨーク・タイムズで「運命が二人の出会いをもたらした・・・」と紹介されたイギリスの陶芸家ルーシー・リーとハンス・コパーは、バーナード・リーチとともに20世紀陶芸の巨匠と目されます。二人はナチスから逃れてロンドンで出会いますが生涯稀有のパートナーシップと友情で結ばれ、彼らの作品はお互いを抜きに語ることはできないと言われます。その二人の物語を紹介していきます。

1914年、サラエヴォで王位継承者のフランツ・フェルディナント大公と妻のゾフィーが暗殺されたことを発端として世界大戦が勃発した。

ウィーンは最初の頃こそ楽観的だったがしだいに食料統制がしかれ配給制になり、物価も高騰した。帝国を批判的に見ていたフロイトでさえ「30年のうち初めて自分はオーストリア人であると感じた」と書いたほど、愛国心が国中にうずまいていた。

ルーシーの二人の兄、テディとポールは志願してオーストリア・ハンガリー軍に入隊して兄のテディは少尉に昇進し、ポールは軍曹になった。ポールは休暇で帰ってくるとルーシーのラテン語や数学をみて勉強の手助けをした。

しかし、ルーシーが15才になった大晦日、イタリアのカポレット*での戦闘でポールの戦死したという恐ろしい知らせが伝えられた。

ルーシーの美術への才能を認め、ドローイングの家庭教師をつけるよう父親に勧めたポールはルーシーに格別近い存在だったことに加えて、自分が大晦日のパーティから戻った時にその知らせを受けたことで罪悪感をいだき、母親も受け入れがたいショックに打ちのめされた。

ルーシーは、直前の休暇で勉強を見てくれたポールが軍に戻る時、きちんとさよならも言わなかったことをからかうポールからの手紙を思い出した。「(ちゃんとさよならを言ってないんだからまったく!)・・・・チェリーをカゴいっぱいに送ってくれるまで(ルーシーを)許さないよ!・・・だから君はまた僕に会えるよ」

*この頃の、オーストリアとイタリアの国境近くでの戦闘について、イタリア軍側からの戦闘状況はヘミングウェイの「武器よさらば」に詳しい。
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3 参考図書 トニー・バークス著『ルーシー・リー』同『ハンス・コパー』、エマニュエル・クーパー著『LUCIE R…

ルーシー・リーとハンス・コパー物語 3 ルーシーの少女時代

ニューヨーク・タイムズで「運命が二人の出会いをもたらした・・・」と紹介されたイギリスの陶芸家ルーシー・リーとハンス・コパーは、バーナード・リーチとともに20世紀陶芸の巨匠と目されます。二人はナチスから逃れてロンドンで出会いますが生涯稀有のパートナーシップと友情で結ばれ、彼らの作品はお互いを抜きに語ることはできないと言われます。その二人の物語を紹介していきます。

ルーシーはウィーンの裕福な家庭で育った。母は、ウィーン近郊のアイゼンシュタットで広くワイナリーを営むヴォルフ家の出で、子どもたちは休みごとにアイゼンシュタットを訪れて田舎生活を楽しんだ。

ルーシーを守ろうとする姿勢の強かった長兄テディより、ルーシーは次兄ポールにより近い気持ちを抱いていた。ポールは自身も絵やドローイングに優れていたが、ルーシーの芸術的才能を認めたポールは、彼女にドローイングの個人レッスンを受けさせてはどうかと父親を説得している。そのレッスンを与えたオスカー・ライナーは後に美術学校に進学するようルーシーを励ました。

ルーシーの幼児期についての記録はほとんどないが、兄二人に囲まれたルーシーの写真がいくつか残っていて、ルーシーが唯一の女の子として一家の中心にあり可愛がられて育ったことは想像に難くない。学齢期に達した時、両親は、学校は粗野な生徒がいると恐れて小学校に入学させず家庭教師をつけたほどだった。また父親は、ルーシーが成人してからでさえしばしば「私のちっちゃな娘」と呼んでいる微笑ましい記録がある。

ルーシーが10才になった時、ルーシーは初めて私立小学校に送られた。11才で中等教育を受けるにあたって両親は、当時ウィーンで科学に重点を置く進歩的な女子校、レアールギムナジウムに進学させた。ここでは古典科学のみならず芸術も教え、オスカー・ココシュカ、アドルフ・ロース等各界の優れた教師が採用されていた。両親の保管していた終了証書からは、ルーシーの成績が極めて良かったことが記されている。

しかし都会やアイゼンシュタットの田舎での平和なくらしは、ルーシーが12才の時に勃発した第一次世界大戦で一変した。それはルーシー一家にも、大きな悲劇をもたらした。ルーシーを理解し、ルーシーが最も慕っていたポールの死というかたちで。





ルーシー・リーとハンス・コパー物語 2 ウィーン1902 

ニューヨーク・タイムズで「運命が二人の出会いをもたらした・・・」と紹介されたイギリスの陶芸家ルーシー・リーとハンス・コパーは、バーナード・リーチとともに20世紀陶芸の巨匠と目されます。二人はナチスから逃れてロンドンで出会いますが生涯稀有のパートナーシップと友情で結ばれ、彼らの作品はお互いを抜きに語ることはできないと言われます。その二人の物語を紹介していきます。

ルーシー・マリー・ゴンペルツは1902年3月16日、ユダヤ人の両親のもとウィーンに生まれた。父親はフロイトとも親交のあった耳鼻科専門医ベンジャミン・ゴンペルツ博士、母親は実家がウィーン近郊のアイゼンシュタットにワイナリーを持つ豊かな一族ヴォルフ家のギーゼラだった。

ルーシーは5才年の離れた長兄テディと4才年上の次兄ポールの下に生まれ、初めての女児として親兄弟から一身に注目され可愛がられて育った。

当時のオーストリアはフランツ・ヨーゼフの治世であり、ヨーゼフ皇帝によってユダヤ人が首都に住むことが許されたため多くのユダヤ人が地方からウィーンに移り住んでいた。

いわゆる世紀末ウィーンと呼ばれる退廃的きらびやかな文化的発展を遂げた時代だ。「世界がウィーンの文化として称賛していたものの9/10は、ウィーンのユダヤ人によって発展され育まれ、、、」とシュテファン・ツヴァイクは書いている。

画家グスタフ・クリムト、エゴン・シーレ、オスカー・ココシュカ、建築家オットー・ワグナー、ヨーゼフ・ホフマン、音楽ではヨハン・シュトラウス、ヨハネス・ブラームス、グスタフ・マーラー等、枚挙にいとまがない。ジークムント・フロイトやフランツ・カフカもこの時代に活躍した。

ナチスによる19世紀末から1938年のオーストリア併合アンシュルスまでの短期間にこれほどの文化的爛熟をみたこの時代は後にも先にも例がないだろう。ルーシー・ゴンペルツの育った時代背景はこのようなものだった。のちにロンドンに亡命し陶芸家として活躍するルーシーの晩年に見る華麗な色使いはどこかこの時代のウィーンを想起させる。

そしてルーシーの幼少期、思春期ともその時代のウィーンを色濃く反映した豊かで文化的、非宗教的なものだった。


※不定期掲載の「ルーシー・リーとハンス・コパー物語」について。
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