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ルーシー・リーとハンス・コパー物語 (LR&HC) について

イギリスにおける20世紀陶芸の巨匠、ルーシー・リーとハンス・コパーの人気は留まることを知らない。1989年に草月会館で開催された三宅一生氏によるルーシー・リー展、それから13年後、滋賀県の陶芸の森美術館で「生誕100年記念ルーシー・リー展〜静寂の美へ」が開催され、愛媛の三浦美術館、東京のニューオータニ美術館へ巡回。ルーシー・リーとその作品に対する大人気フィーバーの発端となった。

2009年には「没後20年 ルーシー・リー展」とハンス・コパーの初めての回顧展である「ハンス・コパー 20世紀陶芸の革新」展が国内で同時に開催され、全国を巡回して海外からも注目された。実際に二人の展覧会が同時期に見られるということで海外のファンたちも押し寄せた。(ハンス・コパー展は兵庫陶芸美術館、滋賀県陶芸の森陶芸館、東京の汐留美術館、岐阜県現代陶芸美術館、岩手県立美術館、静岡市美術館に、2009年〜2011年にかけて巡回した)

二人の人気は、開催美術館にいまだに図録や展覧会予定の問い合わせがくることという事実に表されている。

ルーシー・リーやハンス・コパーの展覧会企画に協力させてもらってきたことや、ルーシー・リー、ハンス・コパーに関する本の出版を手がけてきたことから、通勤や通学の途中で気軽に読める彼らの物語を読みたい、という声がこのブログにたびたび寄せられてきた。今回100回程度を目標にスライドレクチャー風に二人の物語をまとめてみたいと思う。ご意見や感想をお寄せいただければ幸いです。

この物語を始めるにあたって、次のことをお断りしたいと思う。

不定期掲載の「ルーシー・リーとハンス・コパー物語」について。
1 過去にブログで書いたエピソードなど、重複する内容が含まれることがあります。
2 ©hus-10, Inc. コピーライトはヒュース・テンに属します。断りなく引用、コピーをすることはお断りします。
3 参考図書 トニー・バークス著『ルーシー・リー』同『ハンス・コパー』、エマニュエル・クーパー著『LUCIE RIE モダニズムの陶芸家』(ヒュース・テン発行) Crafts Study Centre Archive 写真は特に記載のない場合は出版された書物などからのコピー、著者の撮影、クラフツ・スタディー・センターで一般に公開しているものを含みます。その他ここに記載以外の書籍や欧米を含む新聞記事など参照しています。
4 一度投稿した後に追加、補正、参照記事、新たな事実などの記載をする場合は青文字で表示します。

2019.1.19
「ルーシー・リーとハンス・コパー物語」を読むにあたって、すでに読んだ記事かすぐわかるよう、副題が見やすいスタイルをとのご要望によって、デザインに変更しました。したがって現在は動的ビューを採用していません。




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ルーシー・リーの釉薬レシピ

Rie Archive from Crafts Study Center Vads ルーシー・リーの釉薬のレシピが昨今いろいろなところで紹介されている。それらには『生誕 100年記念 ルーシー・リー展 静寂の美へ』(2002年、展覧会は陶芸の森、ミウラート美術館、ニューオータニ美術館を巡回)の展覧会カタログに掲載されている、ナイジェル・ウッド氏の特別寄稿「ルーシー・リーの素材と技法」を参照しているものが少なくない。彼が、ルーシー・リーの釉薬ノートを最初に精査した研究者のひとりだからだ。 ナイジェル・ウッド氏はイギリスのオックスフォード大学首席客員研究員で中国陶磁器の釉薬についての研究における世界的権威だ。上に紹介した図録ではルーシー・リーの残した釉薬ノートを研究して詳細に分析、その技法やレシピを、その図録で紹介している。 ウッド氏は、ルーシー・リーの最大の功績のひとつは電気窯であれほどの豊かな作品を創り出したことにある、と述べている。これは当時、バナード・リーチを始めとするストーンウェアの作家たちの間に、炎による還元焼成でなければストーンウェアの焼成はあり得ないといった共通の認識があったためだ。 リーチは電気窯での焼成を「死んだ火、死んだ焼成」と言っていたほど燃焼窯による還元焼成にこだわった。ところがウッド氏は、   「 ルーシー・リーの作品は酸化焼成である。言い換えれば、彼女は   電気窯の澄んだ 酸化雰囲気で作品を焼成しているのだ。ルーシー・リーが   初めてストーンウェアを作り出したのは、1948年から1949年にかけての   冬であったが、当時もっともストーンウェアに取り組んでいた陶芸家たちは、   たいてい薪窯やガス窯、石炭や石油の窯など、直火の窯で還元焼成していた。   炎の出る燃料を使った還元焼成の方が、窯の中がわずかに煙った還元雰囲   気味になり、粘土素材と釉薬の両方に含まれている酸化した鉄分が作品に   豊かな表情をもたらすからだ・・・・・・・(略)・・・・・   ルーシー・リーは、このような酸化鉄には関心をもたず、他の着色剤や   乳白剤、たとえば二酸化マンガン、ウラン酸ナトリウム、酸化スズ、   酸化亜鉛などを好んで使用した。   ルーシー・リー

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