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ルーシー・リーとハンス・コパー物語 16  ナチスの台頭とユダヤ人迫害




自分の工房と窯を備えたルーシーが一層作陶に没頭しつつあったその頃、政治的には緊迫した動きが起こりつつあった。

1938年パスポート「ルーシー・リー モダニズムの陶芸家」より

ニューヨーク・タイムズで「運命が二人の出会いをもたらした・・・」と紹介されたイギリスの陶芸家ルーシー・リーとハンス・コパーは、バーナード・リーチとともに20世紀陶芸の巨匠と目されます。二人はナチスから逃れてロンドンで出会いますが生涯稀有のパートナーシップと友情で結ばれ、彼らの作品はお互いを抜きに語ることはできないと言われます。その二人の物語を紹介していきます。

ドイツが国際連盟から脱退し、ドイツのユダヤ人が医療関係の職に就くことが禁じられ公民権が剥奪された。しかしそのような状況であっても、オーストリアの多くのユダヤ人はその脅威を正確に認識していなかったかのようだった。ルーシーの両親もまた逼迫した環境にあることを認識していなかったように見える。

多くのユダヤ人の間では、オーストリアでナチス政権のような政府は起こりえないしそれほど悪い状況になるわけはないと楽観的な見方が蔓延っていた。戦争の足音はいつの世でもひっそりと早足でやってくるかのようだ。

ドイツとオーストリアの関係は悪化し、ヒトラーの要求に応じないオーストリアのフォン・シュシュニック首相は辞任に追い込まれ、やがてある日ドイツ軍がオーストリアとの国境を超えた。ヒトラーがウィーンに入り、ヒトラーはウィーンの市民に熱狂的に迎えられた。ドイツによるオーストリア併合「アンシュルス」は予期しないスピードで進められ、ユダヤ人迫害はドイツ国内より厳しく進められた。

ルーシーが今まで親しくしていた友人たちもユダヤ人であるルーシーに突然声をかけなくなったと、のちにロンドンに亡命したルーシーは、ルーシーの伝記を書いたトニー・バークスに語っている。ユダヤ人の女性たちは一列に並び道路に跪いての清掃を強制されたり、ナチス親衛隊による昼夜を問わないユダヤ人の大量逮捕が始まった。


ルーシーが近しく親しんでいた祖母のヘルミーナ・ヴォルフは86才で亡くなり、続いて胃癌と診断された父親が亡くなり母のギーゼラ・ゴンペルツも1937年に亡くなった。大好きな叔父のサンダー・ヴォルフもイスラエルのハイファに逃れた。今やルーシーたちをウィーンに留めるものはなかった。

ルーシーは建築家エルンスト・プリシュケのデザインした家具や調度品をロンドンに送る手配をして、亡命の準備を進めた。



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