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バーナード・リーチとルーシー・リー

1952年ダーティントン会議でアルティガスとリーチとルーシー・リー
トニー・バークス著「ルーシー・リー」より


バーナード・リーチは初めルーシー・リーの作品を認めなかった。

オーストリアですでに数々の展覧会で入賞し新進の陶芸家
として活躍していたルーシー・リーの作品は最初イギリスでは
受け入れられなかった。

バーナード・リーチはルーシー・リーの作品を
「薄過ぎ」「釉薬は厚過ぎ」「人間らしさがない」と批判し
ルーシー・リーのことを「ウィーンから来たボタン作り」と
人に紹介していた。

いくらルーシー・リーが、バーナード・リーチなくしては
戦後のあの時期、イギリスの陶芸家は生き延びることができなかった
と感謝の言葉を述べていても、イギリスの陶芸界で「絶対」の
権威を誇るリーチの批判がどれほどルーシー・リーを傷つけただろうと
思わずにいられない。

しかし後にバーナード・リーチは『東と西を超えて』
(日本経済新聞社1978年)の中で
次のように述べている(以下福田隆太郎訳)。

  この時期にロンドンからわれわれに会いに
  やって来た女性の陶芸家がもう一人いる。
  ルーシー・リーである。
  彼女は非常に感受性の鋭いオーストリア人の若い
  芸術家であり、すでにウィーンでは名声を博して
  いたが、イギリスに落ち着く場所を見つけようと
  していた。戦争に突入する直前彼女が私に会いに
  来たダーティントンで、私が彼女をやっつけて、
  進路を変えさせたと彼女が言ったにもかかわらず、
  彼女はふつうの意味での私の弟子とは
  ならなかったし、彼女の陶器も、私の影響を
  どこにも見せていなかった。私はヘンリー・トンクス
  の手法をいくらか採り入れ、影響を受け、そこから
  学び取っていったに違いない。また、ウィーンの美術や
  工芸に対し、拭い難い偏見もあったのかもしれない。

ヘンリー・トンクスの言及とのつながりがここではよく
わからないが、リーチは、ルーシー・リーの作品に対して
「ウィーンの美術や工芸に関する
偏見があったかもしれない」と認めている。

またこれに続いて

  彼女はとても腕の良い陶芸家であったし、今もなお
  そうである。今日、ルーシー・リーの陶器は偉大な、
  そして永続的な、優れた女流美術家としての優美さを
  示していると私は思っている。彼女の作品の形は女らしいもの
  であるが、明快で確固としており、ときには枯淡で、
  常に彼女の生来の特質を表現している。彼女は今も一人で
  あの袋小路の小さな家で仕事をしている。

と延べてルーシー・リーの作品を高く評価し、

  (中略)このオーストリア人の
  陶工は、まさに避難所と、多くのイギリスの
  人びとの愛と、新しい家を見つけたのであった。
  彼女が女王陛下から大英帝国四等勲士O・B・Eを
  頂く栄誉にあずかったことを私は誇りに思っている。

と讃えている。

リーチは生涯で13回来日しているが、そのうちの
何度か来日のたびにリーチのお世話をした方に話を
伺ったことがある。

「バーナード・リーチにある時、今イギリスで活躍する
優れた陶芸家はどんな方がいますか?と聞きました。
そうしたら遠くを見るような目でしばらく沈黙して、

『ルーシー・リーという女性の陶芸家がいます』

とおっしゃったんです。この時、ああリーチはその人を
好きなんだなと強く感じました。あんなテキサスの
じゃじゃ馬のようなジャネットとは違うんだろう、ってね。

これは本当にもうその時直感というか、とても伝わって
きました」

ジャネットは優れた陶芸家でこの表現は失礼にあたるかも
しれないがその人はそう言って黙った。

リーチが「遠くを見るように、、」という表現は他の時に
他の人からも聞いたことがあり、リーチのくせだったのかも
しれないが興味深いエピソードとして心に残った。

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