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ルーシー・リーとハンス・コパー物語13 ヴォルツァイレ24番地    

ニューヨーク・タイムズで「運命が二人の出会いをもたらした・・・」と紹介されたイギリスの陶芸家ルーシー・リーとハンス・コパーは、バーナード・リーチとともに20世紀陶芸の巨匠と目されます。二人はナチスから逃れてロンドンで出会いますが生涯稀有のパートナーシップと友情で結ばれ、彼らの作品はお互いを抜きに語ることはできないと言われます。その二人の物語を紹介していきます。

1926年6月に工業美術学校を卒業したルーシーは9月にハンス・リーと結婚。ほぼ三年をルーシーの実家で新婚生活を送り、やがて叔父サンダーの所有するヴォルツァイレ24番のアパート最上階を提供してもらえることになった。


この時ルーシーは椅子を購入したことで知り合った(工業美術学校のときに知り合ったという説もある)新進の建築家エルンスト・プリシュケ(1903-1992)にアパートの家具デザインを依頼した。プリシュケは後にオーストリアを代表する建築家として活躍し、ルーシーの家具は現在オーストリア王立家具博物館にプリシュケの書いた図面と共に展示されている。
ルーシーはこのヴォルツァイレのアパートに作った工房で作陶に没頭し、モンザ国際展やロンドンのオーストリア美術展にも出品して、ミラノの展覧会で金賞、パリ国際展で銀賞を受賞するなど、ヨーロッパの陶芸家としてキャリアを積んでいた。
工房には窯がなかったのでルーシーは工業美術学校まで生の作品を運んで焼成したが、運ぶ距離を節約するため素焼きをせず直接本焼きした。これがルーシーの作品に特徴ある表情を作る「一度焼成方式」のきっかけになったとルーシーはトニー・バークス(ルーシーの伝記を書いた)に語っている。










ルーシー・リーとハンス・コパー物語 12 ルーシーの結婚

ニューヨーク・タイムズで「運命が二人の出会いをもたらした・・・」と紹介されたイギリスの陶芸家ルーシー・リーとハンス・コパーは、バーナード・リーチとともに20世紀陶芸の巨匠と目されます。二人はナチスから逃れてロンドンで出会いますが生涯稀有のパートナーシップと友情で結ばれ、彼らの作品はお互いを抜きに語ることはできないと言われます。その二人の物語を紹介していきます。

1926年、ヨーロッパで最初の革新的な美術学校となった工業美術学校を卒業すると、才能があり勉強熱心であったルーシーは、ポヴォルニーから誘われて彼の工房に場所を借りて自分の仕事をすることが出来た。また、エッセンでの国際展にルーシーのポットが展示されたこともあり、独立するに十分な注文も受けていた。

一方ルーシーは淡い思いを抱いていたエルンスト・リーが山の遭難事故で亡くなって以来、喪失の思いを共有していたエルンストの弟ハンスと気持ちが近しくなっていた。家族ぐるみの付き合いが続き、やがて卒業と同時に結婚することが進められた。夫となるハンスは、フェルト帽工場のマネジャーとして有能で、将来が約束されていた。ルーシーも制作を続けていこうとしていた。

強い結びつきで知られるユダヤ人家族の一人娘として、ルーシーの実家の一部を改造して新婚の二人が住むことは、とりあえずの若いカップルの堅実的な選択であったのかもしれない。


二人がルーシーの実家に住むことで、ルーシーへの器の注文を父や母が代わりに受けることもあった。カラフルなフィギャーや装飾性の高いツボなどで名高いゴールドシャイダーセラミックス社が、ルーシーの作品の一点を製品化して1928年に展示したとの記録もあり(母ギーゼラからルーシーに宛てた手紙)、後にウェッジウッドからの申し出の経緯を考えると興味深い。
ただし伝統的な妻になることを期待する両親との同居は様々な葛藤も生んだ。ルーシーは両親の定期的な休暇によって家や使用人のの管理を任されることや、家族への義務、ゴンペルツ家に夫ハンスが溶け込むことを要求されると感じていた。また作品制作にもっと時間を使いたいと望んだ。
3年がそのように過ぎ、ある時叔父のサンダー・フォルフから救いの手が差し伸べられた。

ルーシー・リーとハンス・コパー物語 11 ウィーン時代のルーシーの釉薬

ニューヨーク・タイムズで「運命が二人の出会いをもたらした・・・」と紹介されたイギリスの陶芸家ルーシー・リーとハンス・コパーは、バーナード・リーチとともに20世紀陶芸の巨匠と目されます。二人はナチスから逃れてロンドンで出会いますが生涯稀有のパートナーシップと友情で結ばれ、彼らの作品はお互いを抜きに語ることはできないと言われます。その二人の物語を紹介していきます。

当時、ポヴォルニーの作るフィギャーやクラスメートの作るカラフルで装飾性に富んだ作品が主流を占めていた陶芸環境にあって、ルーシーの作る器がシンプルなフォルムや色であったことは特異なことに思えるが、その点ではホフマンのミニマルな形やモダニズムに、また初期のウィーン工房の精神に、より影響を受けたと思われる。
ルーシーの関心はもっぱら釉薬にあり、工業美術学校時代、その実験に没頭していた。その頃書き留めた実験の釉薬ノートの数々は、のちにロンドンに亡命してからのボタン作りや作品に大いに生かされている。
ルーシーの釉薬ノートには工業美術学校時代に行った数々の実験の結果やこの頃開発した釉薬が細かく書かれている。その釉薬ノートを詳しく調査したオクスフォード大学の上級研究員ナイジェル・ウッド氏はルーシーが「しばしば釉薬そのものを装飾とした」と表現している。


通常「ピンホールを美しいと思う陶芸家はまれであるだろう。しかしルーシーはこの減現象に日を見出す鋭い洞察力と完成を持ち合わせていた・・・(中略)・・初期の頃の家庭用食器に使用した標準的な透明釉に酸化亜鉛が高い比率で含まれていたためピンホールが発生したのかもしれない。また、釉薬を刷毛で塗る技法もピンホールを発生させやすい。特に乾燥した生地に釉薬を塗る場合よりも、釉薬を重ね塗りするときに空気を取り込んでしまうことが多い。ルーシーの釉薬は特別粘着性が高いので、窯にいれても空気の泡が残り、表面に細かい空気穴を大量に残しやすい」(「生誕100年記念ルーシー・リー展 静寂の美へ」カタログのナイジェル・ウッド氏エッセイより)
後にルーシーは「溶岩釉」として知られる、シリコンカーバイドを使った厚い泥漿・釉薬を好んで使用するが、すでにウィーン時代に、空気の泡から生まれるこのピンホールと通じる表情が見られる。

ルーシー・リーとハンス・コパー物語 10 ポヴォルニーの授業

ニューヨーク・タイムズで「運命が二人の出会いをもたらした・・・」と紹介されたイギリスの陶芸家ルーシー・リーとハンス・コパーは、バーナード・リーチとともに20世紀陶芸の巨匠と目されます。二人はナチスから逃れてロンドンで出会いますが生涯稀有のパートナーシップと友情で結ばれ、彼らの作品はお互いを抜きに語ることはできないと言われます。その二人の物語を紹介していきます。

工業美術学校でルーシーは、陶芸に関する知識をミヒャエル・ポヴォルニーから授かった。ポヴォルニーの授業はかなり厳しいものだったが、陶芸コースは高い国際的評価を得ており海外からの学生も多数学んでいた。その一人、アメリカのクリーヴランド美術学校の生徒だったヴィクトール・シュレッケンゴーストが当時のポヴォルニーの教えについてエピソードを残している。
シュレッケンゴーストはすでに母国で陶芸で熟練者であったにもかかわらず、ポヴォルニーは彼に、サイズを変えて一定の形をろくろ挽きする課題を与えた。来る日も来る日も6週間の間「ポヴォルニーは私の挽いた器の形が違っていないか2つに切って立証した・・・ある日ついに栄光の日がやってきた。ポヴォルニーはポットを見て、一つのポットを裏返し、学校のサインをそこに押して『さあ、これで焼成していいよ。これ全部が学校の財産だとわかっているだろう?もし家に持って帰りたかったら買わなくちゃいけないよ』と言った。それは最高の日となった」
ルーシーも同じような訓練を受けたことだろう。ルーシーの伝記を書いたトニー・バークスに、彼女はポヴォルニーを尊敬し、感謝していると語っている。

ルーシー・リーとハンス・コパー物語 9 ストックレイ邸での展示から国際展へ

ニューヨーク・タイムズで「運命が二人の出会いをもたらした・・・」と紹介されたイギリスの陶芸家ルーシー・リーとハンス・コパーは、バーナード・リーチとともに20世紀陶芸の巨匠と目されます。二人はナチスから逃れてロンドンで出会いますが生涯稀有のパートナーシップと友情で結ばれ、彼らの作品はお互いを抜きに語ることはできないと言われます。その二人の物語を紹介していきます。

現在はユネスコの世界遺産となっているベルギー、ブリュッセルのストックレイ邸は、ベルギーの資産家、アドルフ・ストックレイの依頼でウィーン分離派のヨーゼフ・ホフマンがデザインしたものだ。

グスタフ・クリムトが内装を手がけ、壁の装飾、家具や調度品も担っている。そのストックレイ邸に、まだ学生のルーシーの作品をホフマンは持っていき展示した。それは当時クリムトたちウィーン分離派の目指した、建築と壁紙や家具調度品、グリーティングカードに至るまで、すべてに調和の取れたデザインが必要であるという総合芸術の観念に、まだ新人であったルーシーの作品が合致したということだろう。

ホフマンがルーシーの作品を評価して展示したという事実は、ルーシーにとって大きな自信につながる出来事であったろう。彼がフランスに送ったルーシーの作品は後にロンドン、ミラノに巡回され、ミラノ・トリエンナーレで金メダル、パリ国際店で銀メダルを受賞するなど、ヨーロッパでルーシーの名が一躍評判になるきっかけを作った。

ルーシーのシンプルなうつわを評価して国際展に送ったホフマンと、陶芸の技術的な訓練と知識を与えたポヴォルニーによってルーシーは陶芸家としての人生を歩み始めたと言えるだろう。実際にルーシーが学校時代に何百という実験を繰り返しその結果をノートにまとめていたことが知られるが、実際にどのような実験をし、どのような釉薬を作っていたのだろうか。


ルーシー・リーとハンス・コパー物語8 ウィーン工房と工業美術学校

ニューヨーク・タイムズで「運命が二人の出会いをもたらした・・・」と紹介されたイギリスの陶芸家ルーシー・リーとハンス・コパーは、バーナード・リーチとともに20世紀陶芸の巨匠と目されます。二人はナチスから逃れてロンドンで出会いますが生涯稀有のパートナーシップと友情で結ばれ、彼らの作品はお互いを抜きに語ることはできないと言われます。その二人の物語を紹介していきます。

ウィーン工房の流れをくむ工業美術学校は、20世紀初頭、ヨーロッパで最も進歩的な教育機関として多くの斬新的デザイナーや建築家美術家を惹き寄せた。建築家のヨーゼフ・ホフマン(1870-1956)、画家のコロマン・モーザ(1868-1916)、陶芸家のミヒャエル・ポヴォルニー(1871-1954)らが教鞭をとり、第一線で活躍する芸術家たちが集う機関でもあった。

ルーシーの指導教官であったポヴォルニーは「・・・・徹頭徹尾ただの職人陶工であった。・・・陶芸の地位を高める手助けができるような人物ではなかった」、「・・ポヴォルニーは陶芸にマイナスの影響を与えた。彼には力量がなかったが・・」などと、ルーシー・リーの伝記を書いたトニー・バークスはその著書の中で彼のことを散々に書いているが、実際は、ポヴォルニーは生徒たちに好かれ、またルーシーは彼をとても尊敬していた。

ルーシーは、ポヴォルニーが不可能と言った鮮やかな色の釉薬を開発するために様々な、系統だてた実験を繰り返し、何冊もの釉薬ノートに記録している。この頃の実験がルーシーの釉薬の化学的知識を確実なものにして後の作品やボタン作りに生かされている。

ポヴォルニー教授はしばしばルーシーを伴って美術館や博物館を訪れ古い陶器を見せ、ルーシーは彼のもとで釉薬の知識を広げたが、学生時代のルーシーの作品を自身の建築であるストックレイ邸に持っていき展示したのは、もう一人の教授、ヨーゼフ・ホフマンだった。

ルーシー・リーとハンス・コパー物語7 工業美術学校入学

ニューヨーク・タイムズで「運命が二人の出会いをもたらした・・・」と紹介されたイギリスの陶芸家ルーシー・リーとハンス・コパーは、バーナード・リーチとともに20世紀陶芸の巨匠と目されます。二人はナチスから逃れてロンドンで出会いますが生涯稀有のパートナーシップと友情で結ばれ、彼らの作品はお互いを抜きに語ることはできないと言われます。その二人の物語を紹介していきます。

ルーシー・ゴンペルツは、メーヒェン・ギムナジウム(中高一貫校に近い)を卒業する頃、亡くなった次兄ポールやサンダー伯父の影響もあり芸術の道に進みたい、彫刻を勉強したい、という気持ちが強くなっていた。

サンダー伯父に招待されたヨーロッパ旅行でイタリアの芸術にも触れ、また、アイゼンシュタットで発掘されたローマ時代の壺にも魅せられたルーシーは、両親の望む医者や科学者ではなく、応用美術博物館とそれに付随する工業美術学校が自分の進む道であると思った。

ゴンペルツ家はウィーンの中心であるフォルク通りにあったので、通りを下っていけばオーストリア応用美術博物館があり、その裏手に廊下続きで工業美術学校があった。リベラルな家庭に育ったルーシーにとっても彫刻家になりたいという思いを実践することには勇気が必要であったことだろう。

しかし実際に工業美術大学に進学し授業が始まると、たまたま入った教室のろくろ作業に魅せられてしまう。「私はろくろの虜になってしまいました」と後に、ルーシーの伝記を書いたトニー・バークスに語っている。

工業美術学校でルーシーは、彼女のキャリアと釉薬の化学的知識に大きな影響を与えることになる二人の指導教官に出会った。

ルーシー・リーとハンス・コパー物語 6 私は男性によって作られた

ニューヨーク・タイムズで「運命が二人の出会いをもたらした・・・」と紹介されたイギリスの陶芸家ルーシー・リーとハンス・コパーは、バーナード・リーチとともに20世紀陶芸の巨匠と目されます。二人はナチスから逃れてロンドンで出会いますが生涯稀有のパートナーシップと友情で結ばれ、彼らの作品はお互いを抜きに語ることはできないと言われます。その二人の物語を紹介していきます。

ルーシー・リーは後にトニー・バークスのインタビューに答えて「私は男性によって作られた」との言葉を残している。この言葉が独り歩きしてさまざまな解釈を生むことを恐れずに言えば、ルーシーの生涯に重要な影響を及ぼした男性たちの名前をいくつも挙げることができる。兄のポール、エルンスト・リー、ハンス・リー、バーナード・リーチ、エルンスト・プリシュケ、フリッツ・ランプル、そしていうまでもなく後に出会うハンス・コパー。

しかし少女時代のルーシーに最も影響を与えた一人は、間違いなく伯父のサンダー・ヴォルフといえるだろう。生涯独身で自由に世界を旅し、母の生家アイゼンシュタットのワイナリーを兄とともに相続して発展させ、のちにアイゼンシュタットの建物を博物館にした伯父。

アイゼンシュタットの敷地からはローマ時代の遺物や陶器の破片が数多く発掘され、サンダー伯父からもらってそのうちのひとつをルーシーは生涯そばに置いていた。世界各地を旅行していたサンダーは、様々な文化圏の工芸品を収集し持ち帰っていた。ルーシーは伯父の土産話を聞きその収集品をを見て育った。

ルーシーは1921年、ポールの勧めてくれた美術の道を進もうという意思を持って、大学出願資格のある優秀な成績で学校を卒業した。

サンダーは、エルンストが亡くなったことのルーシーの悲しみを思いやり、また卒業祝いを兼ねてルーシーとその従姉妹たちをヨーロッパ旅行に招待した。サンダー伯父はそれまでも、スイスでのスキー旅行などに彼女たちを連れ出していたが、今回の冒険と興奮に満ちたその野心的旅行計画は、過保護の父母を大いに心配させた。しかしルーシーにとっては「伯父と一緒にアマゾンや南アフリカにも行けば良かった」と思わせるほどの刺激的な旅だった。




ルーシー・リーとハンス・コパー物語 5 二人の男性の死- 2

ニューヨーク・タイムズで「運命が二人の出会いをもたらした・・・」と紹介されたイギリスの陶芸家ルーシー・リーとハンス・コパーは、バーナード・リーチとともに20世紀陶芸の巨匠と目されます。二人はナチスから逃れてロンドンで出会いますが生涯稀有のパートナーシップと友情で結ばれ、彼らの作品はお互いを抜きに語ることはできないと言われます。その二人の物語を紹介していきます。

1918年、オーストリアーハンガリー軍は壊滅的な敗北を期し、無条件降伏を申し出てイタリアと胸腺協定が調印された。敗戦国の都市であるウィーンは飢餓や病気が蔓延し、芸術分野で活躍していたクリムトやエゴン・シーレもその犠牲となった。

政治的にはまだまだ不安定であったが、市民生活は徐々に回復し、ルーシーたちはアイゼンシュタットの祖母から野菜など食べ物を調達して従来の生活にもどりつつあった。

リー家とゴンペルツ家と家族ぐるみの付き合いがあった。リー家の二人の兄弟エルンストとハンス、そしてゴンペルツ家のテディーやルーシーはスキーや様々なアウトドア・スポーツで一緒に過ごす機会が多くあった。

兄のエルンスト・リーはウィーンの物理学助教授として頭角を現し、また卓越したスキーヤーでもあった。スキーの技術や科学的な議論を通じてルーシーはエルンストに好意以上の気持ちを抱き始めていた。

ルーシーが19才になった夏のある日、エルンストとその友人がスキーで行方不明になった。予定を2日過ぎても戻らず、弟のハンスは捜索に出かけた。そこで発見したのは氷河で凍死しているエルンストだった。

ルーシーはエルンストの弟ハンスに対してお悔やみの手紙を送ったが「ひどい喪失に苦しむ誰かに対して、虚しく響く言葉以外に適切な言葉を探すことはあまりに困難で・・・(長いことお悔やみの手紙を書けなかった)」という短い文章はおそらく自分自身に向けたものでもあっただろう。

兄、ポールの死、深い気持ちを抱いていたエルンストの死、それはルーシーの少女時代にに大きな喪失感を残した。

そんな時、アイゼンシュタットのあととりであった母方の伯父、サンダー・ヴォルフがルーシーに大きな救いの手を差し伸べた。





ルーシー・リーとハンス・コパー物語4 二人の男性の死-1

ニューヨーク・タイムズで「運命が二人の出会いをもたらした・・・」と紹介されたイギリスの陶芸家ルーシー・リーとハンス・コパーは、バーナード・リーチとともに20世紀陶芸の巨匠と目されます。二人はナチスから逃れてロンドンで出会いますが生涯稀有のパートナーシップと友情で結ばれ、彼らの作品はお互いを抜きに語ることはできないと言われます。その二人の物語を紹介していきます。

1914年、サラエヴォで王位継承者のフランツ・フェルディナント大公と妻のゾフィーが暗殺されたことを発端として世界大戦が勃発した。

ウィーンは最初の頃こそ楽観的だったがしだいに食料統制がしかれ配給制になり、物価も高騰した。帝国を批判的に見ていたフロイトでさえ「30年のうち初めて自分はオーストリア人であると感じた」と書いたほど、愛国心が国中にうずまいていた。

ルーシーの二人の兄、テディとポールは志願してオーストリア・ハンガリー軍に入隊して兄のテディは少尉に昇進し、ポールは軍曹になった。ポールは休暇で帰ってくるとルーシーのラテン語や数学をみて勉強の手助けをした。

しかし、ルーシーが15才になった大晦日、イタリアのカポレット*での戦闘でポールの戦死したという恐ろしい知らせが伝えられた。

ルーシーの美術への才能を認め、ドローイングの家庭教師をつけるよう父親に勧めたポールはルーシーに格別近い存在だったことに加えて、自分が大晦日のパーティから戻った時にその知らせを受けたことで罪悪感をいだき、母親も受け入れがたいショックに打ちのめされた。

ルーシーは、直前の休暇で勉強を見てくれたポールが軍に戻る時、きちんとさよならも言わなかったことをからかうポールからの手紙を思い出した。「(ちゃんとさよならを言ってないんだからまったく!)・・・・チェリーをカゴいっぱいに送ってくれるまで(ルーシーを)許さないよ!・・・だから君はまた僕に会えるよ」

*この頃の、オーストリアとイタリアの国境近くでの戦闘について、イタリア軍側からの戦闘状況はヘミングウェイの「武器よさらば」に詳しい。
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3 参考図書 トニー・バークス著『ルーシー・リー』同『ハンス・コパー』、エマニュエル・クーパー著『LUCIE R…

ルーシー・リーとハンス・コパー物語 3 ルーシーの少女時代

ニューヨーク・タイムズで「運命が二人の出会いをもたらした・・・」と紹介されたイギリスの陶芸家ルーシー・リーとハンス・コパーは、バーナード・リーチとともに20世紀陶芸の巨匠と目されます。二人はナチスから逃れてロンドンで出会いますが生涯稀有のパートナーシップと友情で結ばれ、彼らの作品はお互いを抜きに語ることはできないと言われます。その二人の物語を紹介していきます。

ルーシーはウィーンの裕福な家庭で育った。母は、ウィーン近郊のアイゼンシュタットで広くワイナリーを営むヴォルフ家の出で、子どもたちは休みごとにアイゼンシュタットを訪れて田舎生活を楽しんだ。

ルーシーを守ろうとする姿勢の強かった長兄テディより、ルーシーは次兄ポールにより近い気持ちを抱いていた。ポールは自身も絵やドローイングに優れていたが、ルーシーの芸術的才能を認めたポールは、彼女にドローイングの個人レッスンを受けさせてはどうかと父親を説得している。そのレッスンを与えたオスカー・ライナーは後に美術学校に進学するようルーシーを励ました。

ルーシーの幼児期についての記録はほとんどないが、兄二人に囲まれたルーシーの写真がいくつか残っていて、ルーシーが唯一の女の子として一家の中心にあり可愛がられて育ったことは想像に難くない。学齢期に達した時、両親は、学校は粗野な生徒がいると恐れて小学校に入学させず家庭教師をつけたほどだった。また父親は、ルーシーが成人してからでさえしばしば「私のちっちゃな娘」と呼んでいる微笑ましい記録がある。

ルーシーが10才になった時、ルーシーは初めて私立小学校に送られた。11才で中等教育を受けるにあたって両親は、当時ウィーンで科学に重点を置く進歩的な女子校、レアールギムナジウムに進学させた。ここでは古典科学のみならず芸術も教え、オスカー・ココシュカ、アドルフ・ロース等各界の優れた教師が採用されていた。両親の保管していた終了証書からは、ルーシーの成績が極めて良かったことが記されている。

しかし都会やアイゼンシュタットの田舎での平和なくらしは、ルーシーが12才の時に勃発した第一次世界大戦で一変した。それはルーシー一家にも、大きな悲劇をもたらした。ルーシーを理解し、ルーシーが最も慕っていたポールの死というかたちで。





ルーシー・リーとハンス・コパー物語 2 ウィーン1902 

ニューヨーク・タイムズで「運命が二人の出会いをもたらした・・・」と紹介されたイギリスの陶芸家ルーシー・リーとハンス・コパーは、バーナード・リーチとともに20世紀陶芸の巨匠と目されます。二人はナチスから逃れてロンドンで出会いますが生涯稀有のパートナーシップと友情で結ばれ、彼らの作品はお互いを抜きに語ることはできないと言われます。その二人の物語を紹介していきます。

ルーシー・マリー・ゴンペルツは1902年3月16日、ユダヤ人の両親のもとウィーンに生まれた。父親はフロイトとも親交のあった耳鼻科専門医ベンジャミン・ゴンペルツ博士、母親は実家がウィーン近郊のアイゼンシュタットにワイナリーを持つ豊かな一族ヴォルフ家のギーゼラだった。

ルーシーは5才年の離れた長兄テディと4才年上の次兄ポールの下に生まれ、初めての女児として親兄弟から一身に注目され可愛がられて育った。

当時のオーストリアはフランツ・ヨーゼフの治世であり、ヨーゼフ皇帝によってユダヤ人が首都に住むことが許されたため多くのユダヤ人が地方からウィーンに移り住んでいた。

いわゆる世紀末ウィーンと呼ばれる退廃的きらびやかな文化的発展を遂げた時代だ。「世界がウィーンの文化として称賛していたものの9/10は、ウィーンのユダヤ人によって発展され育まれ、、、」とシュテファン・ツヴァイクは書いている。

画家グスタフ・クリムト、エゴン・シーレ、オスカー・ココシュカ、建築家オットー・ワグナー、ヨーゼフ・ホフマン、音楽ではヨハン・シュトラウス、ヨハネス・ブラームス、グスタフ・マーラー等、枚挙にいとまがない。ジークムント・フロイトやフランツ・カフカもこの時代に活躍した。

ナチスによる19世紀末から1938年のオーストリア併合アンシュルスまでの短期間にこれほどの文化的爛熟をみたこの時代は後にも先にも例がないだろう。ルーシー・ゴンペルツの育った時代背景はこのようなものだった。のちにロンドンに亡命し陶芸家として活躍するルーシーの晩年に見る華麗な色使いはどこかこの時代のウィーンを想起させる。

そしてルーシーの幼少期、思春期ともその時代のウィーンを色濃く反映した豊かで文化的、非宗教的なものだった。


※不定期掲載の「ルーシー・リーとハンス・コパー物語」について。
1 過去にブログで書いたエピソードなど、重複する内容が含まれることがあります。
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ルーシー・リーとハンス・コパー物語1 メトロポリタン美術館の二人展

「運命がルーシー・リーとハンス・コパーの出逢いをもたらした」 という、極めて印象的な書き出しの記事がニューヨーク・タイムズに 掲載されたのは1994年、12月18日のことだった。
その年にニューヨークのメトロポリタン美術館で、現存の作家として 初めて、ルーシー・リーとハンス・コパーの展覧会が開催されたのだ。
メトロポリタン美術館という、ファインアートの美術館で 2人の陶芸家の作品展が開催されたことは大きな話題を呼んだが、 その影にはルーシー・リーの親しい友人、 シリル・フランケルの大きな尽力があった。 そのことについては別の機会に紹介したいと思う。
なお、上のニューヨークタイムズの記事は 「(二人の出会いをもたらしたのは運命だが、)彼らが 20世紀後半における英国の傑出した陶芸家足らしめたものは、 彼ら自身の技術であった」と続く。
この記事が出た翌年、まだ展覧会の続く1995年4月1日に ルーシー・リーはロンドンのアルビオン・ミューズにある 自宅でひっそりと息を引き取った。 ハンス・コパーが亡くなってから、14年経っていた。
ルーシー・リーとハンス・コパーの出会いは戦後間もない 1946年のことだが、次稿から、出会いにいたるまでの 2人それぞれの人生、そして2人が出会ってから、 を見ていきたいと思う。
※不定期掲載の「ルーシー・リーとハンス・コパー物語」を始めるにあたり、2点お断りがあります。
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