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ルーシー・リーとハンス・コパー物語8 ウィーン工房と工業美術学校



ルーシーの取った4年間の科目とその評価、
ポヴォルニー教授のサインがある 1926年6月

ニューヨーク・タイムズで「運命が二人の出会いをもたらした・・・」と紹介されたイギリスの陶芸家ルーシー・リーとハンス・コパーは、バーナード・リーチとともに20世紀陶芸の巨匠と目されます。二人はナチスから逃れてロンドンで出会いますが生涯稀有のパートナーシップと友情で結ばれ、彼らの作品はお互いを抜きに語ることはできないと言われます。その二人の物語を紹介していきます。

ウィーン工房の流れをくむ工業美術学校は、20世紀初頭、ヨーロッパで最も進歩的な教育機関として多くの斬新的デザイナーや建築家美術家を惹き寄せた。建築家のヨーゼフ・ホフマン(1870-1956)、画家のコロマン・モーザ(1868-1916)、陶芸家のミヒャエル・ポヴォルニー(1871-1954)らが教鞭をとり、第一線で活躍する芸術家たちが集う機関でもあった。

ルーシーの指導教官であったポヴォルニーは「・・・・徹頭徹尾ただの職人陶工であった。・・・陶芸の地位を高める手助けができるような人物ではなかった」、「・・ポヴォルニーは陶芸にマイナスの影響を与えた。彼には力量がなかったが・・」などと、ルーシー・リーの伝記を書いたトニー・バークスはその著書の中で彼のことを散々に書いているが、実際は、ポヴォルニーは生徒たちに好かれ、またルーシーは彼をとても尊敬していた。

ルーシーは、ポヴォルニーが不可能と言った鮮やかな色の釉薬を開発するために様々な、系統だてた実験を繰り返し、何冊もの釉薬ノートに記録している。この頃の実験がルーシーの釉薬の化学的知識を確実なものにして後の作品やボタン作りに生かされている。

ポヴォルニー教授はしばしばルーシーを伴って美術館や博物館を訪れ古い陶器を見せ、ルーシーは彼のもとで釉薬の知識を広げたが、学生時代のルーシーの作品を自身の建築であるストックレイ邸に持っていき展示したのは、もう一人の教授、ヨーゼフ・ホフマンだった。

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ルーシー・リーの釉薬レシピ

ルーシー・リーの釉薬のレシピが昨今いろいろなところで紹介されている。それらには『生誕100年記念 ルーシー・リー展 静寂の美へ』(2002年、展覧会は陶芸の森、ミウラート美術館、ニューオータニ美術館を巡回)の展覧会カタログに掲載されている、ナイジェル・ウッド氏の特別寄稿「ルーシー・リーの素材と技法」を参照しているものが少なくない。彼が、ルーシー・リーの釉薬ノートを最初に精査した研究者のひとりだからだ。
ナイジェル・ウッド氏はイギリスのオックスフォード大学首席客員研究員で中国陶磁器の釉薬についての研究における世界的権威だ。上に紹介した図録ではルーシー・リーの残した釉薬ノートを研究して詳細に分析、その技法やレシピを、その図録で紹介している。
ウッド氏は、ルーシー・リーの最大の功績のひとつは電気窯であれほどの豊かな作品を創り出したことにある、と述べている。これは当時、バナード・リーチを始めとするストーンウェアの作家たちの間に、炎による還元焼成でなければストーンウェアの焼成はあり得ないといった共通の認識があったためだ。
リーチは電気窯での焼成を「死んだ火、死んだ焼成」と言っていたほど燃焼窯による還元焼成にこだわった。ところがウッド氏は、
  「ルーシー・リーの作品は酸化焼成である。言い換えれば、彼女は   電気窯の澄んだ酸化雰囲気で作品を焼成しているのだ。ルーシー・リーが   初めてストーンウェアを作り出したのは、1948年から1949年にかけての   冬であったが、当時もっともストーンウェアに取り組んでいた陶芸家たちは、   たいてい薪窯やガス窯、石炭や石油の窯など、直火の窯で還元焼成していた。
  炎の出る燃料を使った還元焼成の方が、窯の中がわずかに煙った還元雰囲   気味になり、粘土素材と釉薬の両方に含まれている酸化した鉄分が作品に   豊かな表情をもたらすからだ・・・・・・・(略)・・・・・   ルーシー・リーは、このような酸化鉄には関心をもたず、他の着色剤や   乳白剤、たとえば二酸化マンガン、ウラン酸ナトリウム、酸化スズ、   酸化亜鉛などを好んで使用した。
  ルーシー・リーは、酸化焼成によるストーンウェアそれ自体を高度な   作品にすることに成功したのだ。ルーシー・リーの手の中で、焼成した   ストーンウェアは芸術作品として成熟し、高い完成度に達した。   彼女は、酸化焼成のストーンウェアの…

バーナード・リーチとルーシー・リー

1952年ダーティントン会議でアルティガスとリーチとルーシー・リー
トニー・バークス著「ルーシー・リー」より

バーナード・リーチは初めルーシー・リーの作品を認めなかった。

オーストリアですでに数々の展覧会で入賞し新進の陶芸家
として活躍していたルーシー・リーの作品は最初イギリスでは
受け入れられなかった。

バーナード・リーチはルーシー・リーの作品を
「薄過ぎ」「釉薬は厚過ぎ」「人間らしさがない」と批判し
ルーシー・リーのことを「ウィーンから来たボタン作り」と
人に紹介していた。

いくらルーシー・リーが、バーナード・リーチなくしては
戦後のあの時期、イギリスの陶芸家は生き延びることができなかった
と感謝の言葉を述べていても、イギリスの陶芸界で「絶対」の
権威を誇るリーチの批判がどれほどルーシー・リーを傷つけただろうと
思わずにいられない。

しかし後にバーナード・リーチは『東と西を超えて』
(日本経済新聞社1978年)の中で
次のように述べている(以下福田隆太郎訳)。

  この時期にロンドンからわれわれに会いに
  やって来た女性の陶芸家がもう一人いる。
  ルーシー・リーである。
  彼女は非常に感受性の鋭いオーストリア人の若い
  芸術家であり、すでにウィーンでは名声を博して
  いたが、イギリスに落ち着く場所を見つけようと
  していた。戦争に突入する直前彼女が私に会いに
  来たダーティントンで、私が彼女をやっつけて、
  進路を変えさせたと彼女が言ったにもかかわらず、
  彼女はふつうの意味での私の弟子とは
  ならなかったし、彼女の陶器も、私の影響を
  どこにも見せていなかった。私はヘンリー・トンクス
  の手法をいくらか採り入れ、影響を受け、そこから
  学び取っていったに違いない。また、ウィーンの美術や
  工芸に対し、拭い難い偏見もあったのかもしれない。

ヘンリー・トンクスの言及とのつながりがここではよく
わからないが、リーチは、ルーシー・リーの作品に対して
「ウィーンの美術や工芸に関する
偏見があったかもしれない」と認めている。

またこれに続いて

  彼女はとても腕の良い陶芸家であったし、今もなお
  そうである。今日、ルーシー・リーの陶器は偉大な、
  そして永続的な、優れた女流美術家としての優美さを
  示していると私は思っている。彼女の作品の形は女らしいもの
  であるが、明快で確固としており、ときには枯淡で、
  常に彼女…

「ルーシー・リーとハンス・コパー物語(LR&HC)」始めます

2009年から2011年にかけて期せずして同時期に、日本でルーシー・リーとハンス・コパーの展覧会が開催され美術館を巡回しました。国内はもちろん、海外でも日本に行けば二人のそれぞれの展覧会を見ることができると大きな話題になり、熱烈なファンやコレクター、美術関係者が来日しました。

このブログは2006年12月にスタートしましたが*、ここには古くからのルーシー・リー、ハンス・コパーのファンのみならず、若者の新たな鑑賞者が多く訪れてくださいます。その方たちから、もっと時代を追って作家の生涯をたどった、(スマートフォンで簡単に読めるような)読み物が欲しいとの声を多数いただいています。

そのご要望に応えて、「ルーシー・リーとハンス・コパー物語(仮題)」の連載(不定期)を1、2ヶ月中にこのブログで始める準備を進めています。

参照資料に、トニー・バークス著「ルーシー・リー」や「ハンス・コパー」の翻訳者・西マーヤの翻訳ノート、スライドレクチャーまた欧米での二人に関する資料などを用いて、二人の生涯を辿ります。

内容はそれらの抜粋、および二人の生い立ち、ナチスの迫害から逃れてたどり着いたロンドンでの出会い、バーナード・リーチを含む周辺の作家たち、コパーのスプリングガーデンへの移住、リーの晩年に至るまでの生涯を短文でご紹介します。

1989年に三宅一生さんが草月会館で開催された展覧会によってルーシー・リーを知り、魅せられてファンになった多くの方と共に、「ルーシー・リー、よく知らなかったけれどその作品に心を奪われた」という若い方たちにも楽しんでいただければと願っています。
                               by the blog author

*投稿時、「これ(展覧会)を機会にこのブログは始められましたが」と記載しましたが、正しくは2006年です、お詫びして訂正いたします。