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ルーシー・リーとハンス・コパー物語 2 ウィーン1902 


父親ベンジャミンfrom Crafts Study Centre - VADS

母親ギーゼラfrom Crafts Study Centre - VADS
ニューヨーク・タイムズで「運命が二人の出会いをもたらした・・・」と紹介されたイギリスの陶芸家ルーシー・リーとハンス・コパーは、バーナード・リーチとともに20世紀陶芸の巨匠と目されます。二人はナチスから逃れてロンドンで出会いますが生涯稀有のパートナーシップと友情で結ばれ、彼らの作品はお互いを抜きに語ることはできないと言われます。その二人の物語を紹介していきます。

ルーシー・マリー・ゴンペルツは1902年3月16日、ユダヤ人の両親のもとウィーンに生まれた。父親はフロイトとも親交のあった耳鼻科専門医ベンジャミン・ゴンペルツ博士、母親は実家がウィーン近郊のアイゼンシュタットにワイナリーを持つ豊かな一族ヴォルフ家のギーゼラだった。

ルーシーは5才年の離れた長兄テディと4才年上の次兄ポールの下に生まれ、初めての女児として親兄弟から一身に注目され可愛がられて育った。

当時のオーストリアはフランツ・ヨーゼフの治世であり、ヨーゼフ皇帝によってユダヤ人が首都に住むことが許されたため多くのユダヤ人が地方からウィーンに移り住んでいた。

いわゆる世紀末ウィーンと呼ばれる退廃的きらびやかな文化的発展を遂げた時代だ。「世界がウィーンの文化として称賛していたものの9/10は、ウィーンのユダヤ人によって発展され育まれ、、、」とシュテファン・ツヴァイクは書いている。

画家グスタフ・クリムト、エゴン・シーレ、オスカー・ココシュカ、建築家オットー・ワグナー、ヨーゼフ・ホフマン、音楽ではヨハン・シュトラウス、ヨハネス・ブラームス、グスタフ・マーラー等、枚挙にいとまがない。ジークムント・フロイトやフランツ・カフカもこの時代に活躍した。

ナチスによる19世紀末から1938年のオーストリア併合アンシュルスまでの短期間にこれほどの文化的爛熟をみたこの時代は後にも先にも例がないだろう。ルーシー・ゴンペルツの育った時代背景はこのようなものだった。のちにロンドンに亡命し陶芸家として活躍するルーシーの晩年に見る華麗な色使いはどこかこの時代のウィーンを想起させる。

そしてルーシーの幼少期、思春期ともその時代のウィーンを色濃く反映した豊かで文化的、非宗教的なものだった。


不定期掲載の「ルーシー・リーとハンス・コパー物語」について。
1 過去にブログで書いたエピソードなど、重複する内容が含まれることがあります。
2 ©hus-10, Inc. 断りなく引用、コピーをすることはご遠慮ください。
3 参考図書 トニー・バークス著『ルーシー・リー』同『ハンス・コパー』、エマニュエル・クーパー著『LUCIE RIE モダニズムの陶芸家』以上ヒュース・テン発行 Crafts Study Centre Archive 他

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