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ルーシー・リーとハンス・コパー物語 15 フリッツ・ランプル

フリッツ・ランプル(from Tony Birks 'Lucie Rie')

ニューヨーク・タイムズで「運命が二人の出会いをもたらした・・・」と紹介されたイギリスの陶芸家ルーシー・リーとハンス・コパーは、バーナード・リーチとともに20世紀陶芸の巨匠と目されます。二人はナチスから逃れてロンドンで出会いますが生涯稀有のパートナーシップと友情で結ばれ、彼らの作品はお互いを抜きに語ることはできないと言われます。その二人の物語を紹介していきます。


この頃知り合った、ルーシーにとって重要な人物の一人となる、詩人でガラス作家でありビミニ・ギャラリーを創設したフリッツ・ランプルがいる。のちにルーシーがロンドンに亡命して仕事がなかった時、ボタン制作の仕事を提供し、また時に花束を持って工房を訪れルーシーを励ました。


ビミニの名はハインリヒ・ハイネの詩から取られたといい、ランプルは自身も詩人として詩を書いてルーシーに送っている。


トニー・バークスによると、ルーシーが亡くなったとき、唯一寝室の壁に掛けられていたのはフリッツ・ランプルの写真だったという。

ウィーン時代、ビミニギャラリーを訪れるファッショナブルな顧客たちはまた、ルーシーのシンプルなデザインのポットを買い求めた。

そしてフリッツはロンドンに亡命してからもルーシーを助け、愛情を注ぎ、二人が恋人であったことをエマニュエル・クーパーの本は明らかにしているが、当時それは秘密に包まれていた。

フリッツ・ランプルはまた幅広い交友関係を持ち、波動力学を提唱したルートヴィヒ・シュレジンガーとも交流があった。のちに彼をルーシーに紹介したのも恐らくフリッツ・ランプルであったろう。ルーシーはシュレディンガーと物理学の話をする時間を楽しみ、シュレディンガーはルーシーに詩を書いて送ったりしている。

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