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ルーシー・リーの鉢2点、銀座で展示

銀座の「懐食みちば」でルーシー・リーの鉢2点が展示されています(次の展示替え時期は未定)。今回は背の高い花生けは展示されていませんが、ルーシー・リーらしいピンクの掻き落としと溶岩釉の鉢です。いずれもルーシー・リーの特徴的な作品として数多くの展覧会に出品されてきたものです。

「ピンク掻き落としの鉢」1970年代後半
口縁のゴールド釉とボディのトルコブルーのラインが特徴的
「溶岩 釉の鉢」c.1980
見込みは無釉で、淡いブルーグリーンのラインがある

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