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バーナード・リーチ最後の手紙

ルーシー・リーはバーナード・リーチと生涯良い友人関係を保っていたことが
知られていますが、リーチとあれほど親しく教えを受ける環境にいながら
独自の作風を開花させ生涯自分自身の、他の誰のものでもない独自の作品を
作り続けました。

これにはハンス・コパーの励ましと助言が大きな役割を担っていると
思われますが、リーチほどのイギリス陶芸界の重鎮と親交を保ちながら
その影響力から自由であると言うことはかなり特異なことと言えるでしょう。

作風は全く異なる二人ですが、生涯友好を暖め、時には過度とも思える
リーチの友情にルーシー・リーはいつも答えました。
何月何日何時何分、パディントン駅の何番ホームに到着する、という
リーチのルーシー・リーに宛てたはがきがいくつか残されています。
そのたびにルーシー・リーは駅まで出迎えに行ったのでした。

リーチが友人以上の気持ちをルーシー・リーに抱いていたことも
知られています。それは2005-2007年ニューオータニ美術館、
とちぎ蔵の街美術館、静岡アートギャラリーを巡回したルーシー・リー
「器に見るモダニズム」展に出品されていたリーチのルーシー・リーに
宛てた手紙からも推察されます。

手紙とは、リーチが亡くなる3週間前に秘書によって口述筆記された
ものです。秘書がその手紙を出そうとした時、妻のジャネット・リーチから、
「出す必要はありません。(日本の友人たちも含めて)必要な人には
私から連絡します」と言われて廃棄したものでした。

けれど、あとになって秘書は「ジャネットがなんと言おうと、私は自分の
良心に従って彼の最後の手紙を貴女に届けるべきでした。これは
あのときの口述筆記をやっと探し出してお送りするものです」という
コメントを添えてルーシー・リーに届けました。

内容は
 「私の親愛なるルーシー
 身体の具合はいかがですか?少しでも良くなっていることを、そして
 会えるよう祈っています。
 神様が今朝僕のしっぽに金の粉を振りかけたよ※。
 僕の為に祈ってほしい。
 いつも僕のすべての愛を込めて。バーナードより」

(※これはリーチ特有の詩的表現だとする説と、死を意識したもの、
という説の両方があります。)

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