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ハンス・コパーの燭台





ロンドンから電車で約2時間北にいくとコベントリーという街があります。
16世紀に建てられた大聖堂は第二次大戦の爆撃によって1940年11月14日に
破壊されてしまいました。

外壁だけ残されていますが、廃墟に隣接して
バージル・スペンスによって設計されたのが現在のコベントリー大聖堂です。
ハンス・コパーはバージル・スペンスに委託を受けて燭台を制作しました。
今も祭壇の両脇に3本ずつ、設置されています。
いかにもハンスらしいシンプルな、それでいて表情豊かな、美しい燭台です。

また、チャペルの一つに、黒い燭台も2点、置かれています。これは以前
持ち運びして実際にミサに使用していたそうですが、ハンス・コパーの
作品があまりに高価になったために、今はテーブルにとりつけてあるとの
ことです。

また裏手にまわるとコンクリートで作られた大きな花生けがあります。
これもハンス・コパーの作品です。ハンスはこれに実際に花を生けて欲しい
と伝えたそうですが、大きすぎるために、今ではフラワーフェスティバルなどの
機会に使われるだけだそうです。
7個残されており、庭で鉢の替わりに使われています。

sora記

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