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ハンス・コパーの遺した言葉



トニー・バークス著『ハンス・コパー』

今までハンス・コパーの遺した言葉・文章はたったひとつ、ピーター・コリングウッドとの二人展をヴィクトリア・アンド・アルバート美術館で開催したときのカタログに載せた


王朝誕生以前のエジプトの器、私の手の大きさでやや卵形の:何千年も前に、おそらく奴隷の手によって作られ、色々な意味で生き抜いてきた。つつましく無抵抗で、どことなくこっけいなーしかし力強く神秘的で官能的だ。
何かを伝えるのではなく、自己表現をするわけでもないが、しかし作り手とその生きた時代の人間世界を内包し映し出しているように見える。微かな力で、そして敬意を込めて。「人間」によって作られた完璧に無駄のない物体。ジャコメッティの人物像。バックミンスター・フラーの人間。普遍のもの。
私を真に魅了したのはこの器だけだ。それは私が器を作る理由ではないが、しかしそれは人とは何かをかいま見せてくれる。

私の関心は、実験や探検にあるのではなく本質を引き出すことにある。ろくろは簡潔さを要求し限界を決定づけ、勢いと連続性を与える。単純なテーマで連続したヴァリエーションを作ることに集中する時、私はその工程の一部になっていく。私は今ーこのすばらしい世紀にー存在するという体験に共鳴しうる感度を持った道具を学び始める。
その目的と機能に関してはあいまいに語られるクラフトというものに取り組む時、人は不条理に直面することがある。まるで取り憑かれたピアノ調律士のように、何よりもまず幻の絶対音程に近づこうとするのだ。そして消え去ってしまう見せかけの理念に逃避しがちだ。しかしそれでもなお、習慣となった仕事は残る。人は現実に取り組む。」(トニー・バークス著『ハンス・コパー』より)

だけと思われていた。しかしエマニュエル・クーパー著『バーナード・リーチ 生涯と作品』(2011年ヒュース・テン出版)によると、晩年のリーチが新聞の攻撃にさらされた時に、ハンス・コパーがいち早く抗議の手紙を新聞社に書いたと明らかにされている。
この事実はコパー研究の大きな助けとなるだろう。すべてを消し去ることを求めたコパーの知られざる一面だからだ。
コパーは先のヴィクトリア・アンド・アルバート美術館のカタログの文章さえ、あとから同美術館に、記載をしないようにとの手紙を書いたとされている。その願いは聞き入れられず、結局ピーター・コリングウッドの文章と共に、コパーの上の文章が遺された。
もしこの文章がなかったら私たちの目に触れる記録は一切遺されなかった。たとえコパー自身が躊躇したとしても、コパー自身が望まなかったとしても、この文章はコパーの作品に対する思いのすべてが凝縮している宝物のような言葉だ。



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