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ハンス・コパー幻のミューラル発見

白い壁に設置されたディスクの美しさは思わず息をのむほどです。
ディスクの中心は壁の向こうへと続く、風が流れる、空間が繋がる
日本での展示のため、壁から取り外す。壁の両側からアートハンドラーが支えながら作業します。

1959年、ヘンリー・モリスによってディグズウェル美術基金が
創設されトータルな芸術村構想が実現しました。
ハンス・コパーはその招待作家として参加、工房を持ち
タイルや衛生陶器など、建築の仕事を多く手がけました。

そこでミューラル(壁面装飾)をいくつか制作しましたが、
多くは取り壊され今では記録に残るだけの「幻のミューラル」と
されていました。

今回ヨークシャーにあるスウィントンスクールの
壁面に残されているミューラルがいわば「再発見」され
初めて公の場に展示されました。

日本でのハンス・コパー回顧展に出品のため、
学校の壁から取り外され修復作家によってクリーニングされて
新たな壁に再現されたものです。

ロンドンのサーッチギャラリーに展示されましたが、
展示の前からハンス・コパー ミューラル発見の
うわさが大きな話題を呼び、美術館関係者はもちろん
ギャラリー、コレクター、アーティスト等がおしよせました。

その美しさ静謐さ構成の卓越さ、再現された空間の圧倒的な
力強さは見る人を魅了して止みません。9月12日、それが
いよいよ日本にやってきます。

ミューラルのディスク(円盤)は壁の向こうにも同じディスクが
設置されてディスク中心の空間は壁の向こうにつながっています。
学校に設置されていたときは生徒がダーツを飛ばして遊ぶので
間にガラスが入れられました。

今回はハンス・コパーが設置したと同じ状態で空間はそのまま
壁の向こうへと続きます。そこに貴方は何を見るでしょうか。

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