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兵庫陶芸美術館でハンス・コパー展開催



いよいよ兵庫陶芸美術館でのハンス・コパー展が始まった。

オープニングレセプションにはヨーク美術館からのクーリエの
方も出席。主催者の乾館長初め神戸新聞の方々のごあいさつがあった。

乾館長は実際にハンス・コパーにお会いになった数少ない日本人の
お一人だ。ルーシー・リーの工房を訪問した時にハンス・コパーが
わざわざアルビオン・ミューズの工房に来て待っていて
くれたという。京都国立近代美術館で開催する
「現代の陶芸ーヨーロッパと日本」展での出品依頼のためだった。
1969年のことだろうか。

乾先生はカタログのエッセイの中で

「ハンス・コパーは、陶芸という芸術の分野において、20世紀が
生んだもっとも独創的で、そしてもっとも傑出した作家である」

と書いておられる。またコパーの芸術に対しての総論というべく
コパーの生い立ちからコパーのかたち、技法、その芸術を
あますところなく伝え、

「(20世紀後半という時代にあっても)、、、、コパーの陶芸は、
際立って革新的だった。陶芸という芸術の自立性を厳しく
保ちながら、これほど透徹した美感と確固とした存在感をもつ
作品を創造した作家は稀有である。、、、」

と非常に感動的な文章を書かれている。

コパーの作品写真を見ながらこの文章を読むと、コパーの
生きた時代と困難に遭いながらもそこで確実な意志をもって
卓越したものを追い求めるコパーの後姿が浮かんでくるようだ。

展覧会では初めてハンス・コパーを見るという方がほとんど。
一様にすごい、来て良かった、感動した、という言葉を残して
くださる。

ヨークシャーの学校の壁にはめ込まれていた実際の作品を
埋め込んだ壁の再現から身体が不自由になって片手で
作り続けた小さな作品まで、静謐な美の世界。

最後の部屋はいわば互いを抜いては語れない生涯友情をはぐくんだ
ルーシー・リーの作品も一緒に展示されている。

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