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ルーシー・リー展とハンス・コパー展

ハンス・コパー展カタログより


今年はルーシー・リーとハンス・コパーの作品に魅せられる人
にとってすばらしい年だ。昨年秋から兵庫陶芸美術館で始まった
「ハンス・コパー展 - 20世紀陶芸の革新」が3月信楽に巡回し、
4月の終わりには国際新美術館でルーシー・リー展が始まる。

両展覧会とも来年夏まで各地を巡回し、日本のどこかで両方を
見ることができる。海外からもそれに合わせて多くの美術関係者
が来日を予定している。

ハンス・コパーは日本で初めて本格的に紹介される。
ルーシー・リー展は2002年の「生誕100年記念ルーシー・リー展
静寂の美へ」に続く大規模な展覧会だ。

上のルーシー・リー作品はハンス・コパー展で展示されている
作品でルーシー・リーの中でも最も美しい作品のひとつとされます。
イギリスの記念切手シリーズになった作品と同じタイプで
薄いピンクやグレー、ブルーが混じり合いエレガントに上に
のびる花生け。実際の作品は写真より少し色がやさしい。

口縁のゆらぎは成形のあとボディーを両側から押すことで
自然に生まれるものだ。プロポーションも色合いもまさに
ルーシー・リーのファンを魅了する逸品だ。この気品のある
作品はきりりと立ち上がり、それでいて口縁のやわらかい
ゆらぎはルーシー・リーの人柄そのものを彷彿とさせる。

コパー展巡回は3月12日から滋賀県立陶芸の森美術館です。

Comments

Unknown said…
こんにちわ。
知り合いが(彼女は美味しいコーヒーを提供する事を生きがいとしている様です)コーヒーの日記を書いていて、
その中に、ルーシー・リーの展に行くのを楽しみにしているってありました。 誰だろうって、思って検索していたらこのサイトに出会いました。
中身が非常に詳しいので関心(感心)しました。

またコルトレーンが好き、と言うのもいいですね。
sora said…
こんにちは。コーヒーの日記とはおもしろいですね。ルーシー・リー展は大阪。ハンス・コパー展は岩手。There was an article on the New York Times titled "Fate brought Lucie Rie and Hans Coper together."Isn't that beautiful?コルトレーンはお好きですか?マイルス・デイヴィスはいかがですか?

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