Skip to main content

Posts

ハンス・コパーの花生けの秘密

       ハンス・コパーの黒い花生け c.1974 正面から見たところ                  裏側から見たところ、HCの印章はのびやかですばらしいデザインです。               斜め横からみたところ                     真上からみた花生けの内側 ハンス・コパーの器の中をのぞいたことがあるでしょうか。 ハンス・コパーの花生けには秘密があります。といっても内部の構造ですが。 ハンス・コパーは自分の器が使われるように、と望んでいました。 いかにも使えそうにない彫刻的な形をした作品も多いのですが、それでも 使って欲しい、という言葉通りその花生けの中には細やかな気遣いがあります。 お花をする人はすぐ気がつくと思いますが、コパーの花生けには茎をささえる ために内側にも器が作られているのです。 内部の広い花生けでは生けた花の茎が中でばらばらになってしまいます。 それを押さえるための内側の器は外側の器と一体になり、二重構造に 作られています。 また外側の器自体もカップの中にうまった状態になっています。複雑な形なので どうやってこれが作られたのか興味深いところです。

ルーシー・リーとウェッジウッド - 2

1963年、ルーシー・リーはウェッジウッドから依頼されてジャスパーウェアを 制作しました。プロトタイプは全部でカップ18点、ソーサー3点の合計21点が 残されています。 9月投稿の写真は2002年5月-9月に開催されたカナダトロントの がーディナー美術館での展示ですが、上の写真はトニー・バークス著の 「ルーシー・リー」に掲載されているものです。 フォルムも掻き落とし文様もいかにもルーシー・リーそのもの。デザインが 美しく、何故ウェッジウッドでの量産が実現しなかったか大きな謎です。

ルーシー・リーとウェッジウッド

ルーシー・リーは生涯に一度だけ陶器のデザインを手がけたことがありました。 ウェッジウッドがルーシー・リーにコーヒーカップとソーサーのデザインを 依頼したのです。 ウェッジウッドから送られてきた粘土を使ってルーシーがデザインしたのは この写真を含む20数点のプロトタイプでした。いかにもルーシー・リーらしい シンプルで美しい形です。 実際は写真から受ける印象より小振りで、手のひらにすっぽりと包み込むことが できるほど、薄い繊細な器です。結局理由が明らかでないままに実現することは ありませんでした。ルーシーはこの出来事について言葉を残していませんが、 いくばくかのお金を受け取る替わりに、作品をすべて戻して欲しいと言い、 これらのプロトタイプを最後まで工房に残していました。 ハンス・コパーは、コーヒーポットやミルクジャーなど、セットすべてを 作ってからプレゼンテーションしたほうが良かったかもしれない、と語ったと 伝えられていますがこの作品が生産化されなかったことはデザイン界にとって 大きな損失であった、これが実現されていたら20世紀のデザインを大きく 変えていただろう、と「ルーシー・リー」の著者トニー・バークスは 書いています。 ルーシー・リーが1995年に亡くなったあと、これらはオークションに かけられましたが、管財人たちの意向で作品はばらばらになることなく、 ノーリッチにあるセインズベリーセンターにまとめて納められました。

ハンス・コパーとルース・ダックワース

7月の初めにイギリス、ウェールズ地方のアベイストウィスというところで セラミックフェスティバルが開かれました。アメリカのNCECA(エヌシーカ、全米 陶芸教育会議)とよばれる催しに似た陶芸家の一大イベントです。 そこにアメリカからルース・ダックワースが招待されレクチャーを することになっていた、と誰もが信じて楽しみにしていたのですが、 空港まで行って出国できなかったというのです。3週間前にパスポートが 切れていてそれに気がつかなかったことが原因でした。 そこで彼女のエイジェントであるシーア女史が変わってレクチャーを行い、 その最後にルース・ダックワースがアメリカから電話に加わり 質問に答えることになりました。 ルース・ダックワースは現在88才ですが、コミッションをまだ沢山 かかえ、作陶を続けています。 会場から「貴女の一番好きな陶芸家は誰ですか?」と質問があがりました。 「私の好きな陶芸家?もちろんハンス・コパーよ。彼はすばらしい アーティストでした。ハンス・コパーの作品は本当に美しい。 すばらしい作品を創るすばらしい人でしたよ」 ルース・ダックワースはルーシー・リーやハンス・コパーと同じように、 ナチスを逃れてイギリスに亡命した一人でした。ドイツのハンブルグにユダヤ人 として生まれ育ちましたが、ホロコーストの困難な時代でした。 「親友が突然、口をきいてくれなくなりました、彼女はナチスでした」 17才の時家族でイギリスに亡命、リバプールアートスクールに入ります。 面接の時、校長に何を勉強したいか聞かれ、 「デッサン、絵画、彫刻と答えたらその中から選ばないといけないと 言われました。だから、何故?ミケランジェロは全部を学んだでしょう、と 言ったの。私はとても未熟な17才でした」 1960年代なかば、ハンス・コパーがアメリカのシカゴ大学から陶芸を 教えて欲しいと依頼を受けました。しかしハンスは断り、その替わりに ルース・ダックワースが招待されたのです。それ以降ダックワースは アメリカで作陶を続けています。 ダックワースはルーシー・リーよりハンス・コパーの作品に、より近い物を 感じる、と語っていますが、「創ることよりほかにおもしろいと思うことは ない」という言葉に、88才まで作陶を続けたルーシー・リーの姿勢が 重なります。

ハンス・コパーの燭台

ロンドンから電車で約2時間北にいくとコベントリーという街があります。 16世紀に建てられた大聖堂は第二次大戦の爆撃によって1940年11月14日に 破壊されてしまいました。 外壁だけ残されていますが、廃墟に隣接して バージル・スペンスによって設計されたのが現在のコベントリー大聖堂です。 ハンス・コパーはバージル・スペンスに委託を受けて燭台を制作しました。 今も祭壇の両脇に3本ずつ、設置されています。 いかにもハンスらしいシンプルな、それでいて表情豊かな、美しい燭台です。 また、チャペルの一つに、黒い燭台も2点、置かれています。これは以前 持ち運びして実際にミサに使用していたそうですが、ハンス・コパーの 作品があまりに高価になったために、今はテーブルにとりつけてあるとの ことです。 また裏手にまわるとコンクリートで作られた大きな花生けがあります。 これもハンス・コパーの作品です。ハンスはこれに実際に花を生けて欲しい と伝えたそうですが、大きすぎるために、今ではフラワーフェスティバルなどの 機会に使われるだけだそうです。 7個残されており、庭で鉢の替わりに使われています。 sora記

バーナード・リーチ最後の手紙

ルーシー・リーはバーナード・リーチと生涯良い友人関係を保っていたことが 知られていますが、リーチとあれほど親しく教えを受ける環境にいながら 独自の作風を開花させ生涯自分自身の、他の誰のものでもない独自の作品を 作り続けました。 これにはハンス・コパーの励ましと助言が大きな役割を担っていると 思われますが、リーチほどのイギリス陶芸界の重鎮と親交を保ちながら その影響力から自由であると言うことはかなり特異なことと言えるでしょう。 作風は全く異なる二人ですが、生涯友好を暖め、時には過度とも思える リーチの友情にルーシー・リーはいつも答えました。 何月何日何時何分、パディントン駅の何番ホームに到着する、という リーチのルーシー・リーに宛てたはがきがいくつか残されています。 そのたびにルーシー・リーは駅まで出迎えに行ったのでした。 リーチが友人以上の気持ちをルーシー・リーに抱いていたことも 知られています。それは2005-2007年ニューオータニ美術館、 とちぎ蔵の街美術館、静岡アートギャラリーを巡回したルーシー・リー 「器に見るモダニズム」展に出品されていたリーチのルーシー・リーに 宛てた手紙からも推察されます。 手紙とは、リーチが亡くなる3週間前に秘書によって口述筆記された ものです。秘書がその手紙を出そうとした時、妻のジャネット・リーチから、 「出す必要はありません。(日本の友人たちも含めて)必要な人には 私から連絡します」と言われて廃棄したものでした。 けれど、あとになって秘書は「ジャネットがなんと言おうと、私は自分の 良心に従って彼の最後の手紙を貴女に届けるべきでした。これは あのときの口述筆記をやっと探し出してお送りするものです」という コメントを添えてルーシー・リーに届けました。 内容は  「私の親愛なるルーシー  身体の具合はいかがですか?少しでも良くなっていることを、そして  会えるよう祈っています。  神様が今朝僕のしっぽに金の粉を振りかけたよ※。  僕の為に祈ってほしい。  いつも僕のすべての愛を込めて。バーナードより」 (※これはリーチ特有の詩的表現だとする説と、死を意識したもの、 という説の両方があります。)

ルーシー・リーとウィーン

photo by Paul Dauer ルーシー・リーはオーストリアのウィーンで生まれ育ち陶芸を学んでいます。 ナチスの台頭とともに大きくなったユダヤ人迫害を逃れて夫とともに ロンドンに渡り、1995年に亡くなるまでその後の一生をハイドパーク近くの アルビオン・ミューズで過ごしました。 故郷のオーストリアで個展を開く話が幾度か出ましたが、そのつど ルーシー・リーは、きっぱりとウィーンでの開催を拒否しました。 どのような思いがあったのか、今となってはわかり得ませんが、ルーシーは ロンドンに渡った時点で、オーストリア人であることからきっぱりと 決別したように見受けられます。イギリスを愛しイギリスに帰化できた ことを喜び、イギリス人であることを誇りにし感謝していました。 ルーシー・リーの唯一現存するBBCのフィルムをプロデュースした シリル・フランケルはウィーンで展覧会を開催したいとルーシー・リーに 申し入れていますが、「私が死んだらいいわよ」と言われた、と 記しています。 ウィーンの人たちが失った偉大なものを見せたいと願っていた シリル・フランケルは、ルーシー・リーが亡くなって4年目にやっと それを実現させました。 ウィーンの工芸美術館MAKのディレクターからの要請でシリル・フランケルが 企画して故郷のウィーンで初めてルーシー・リーの展覧会が開かれたのは 1999年のことでした。