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2008年のアルビオンミューズ

2008年6月現在のアルビオンミューズ。ルーシー・リーが 亡くなる1995年まで住んでいたアルビオンミューズのアパート。 ハイドパークから一本入った静かな住宅街にひっそりと建つ。  アルビオンミューズは石畳の美しい小路だが、ルーシー・リーの アパートはかつての面影はない。伸ばすに任せた植木に覆われて 今や熱帯雨林のようになっている。 運が良ければ2階上の壁に掛けられた 「ここにかつてルーシー・リーが住む」 というプレートを見ることが出来る(この写真では逆光でよく写って いないが)。というのは、「先週まで見えなかったよ。今は 見えるからそのまわりだけ(ツタを)刈ったのだろう」と誰かが 言っていたから。 かつてハンス・コパーやルーシー・リーを訪ねた人たちが鳴らした ドアベルは今バークレイコレクションになっているし、当時を 知る人が訪ねたら様変わりにびっくりすることだろう。 棟続きの隣の部屋(その名もTree Houseとドアにある)に住む、 元ミュージシャンという男性がこの棟のアパートを全部買ったと ななめ向かいの住人が言っていた。彼らはルーシー・リーが健在 だったときからの友人夫婦で、この「植木の手入れをしない」 元ミュージシャンにひどく腹をたてていた。しかも夜は樹に とりつけられたクリスマス飾りのような電気が点滅するのだ。 知らない人が入り込むと、何か用事かと慇懃に尋ねられるような (プライベートな住宅地なので当然だが)、小さな袋小路で そうそう行かれる場所ではないだけにプレートが良く撮れて いないのが残念だ。 「見えるときと見えないとき」があると聞けばさらに残念なことだ。

ルーシー・リーのボタン

「ウィーンからきたボタン作り」とバーナード・リーチはルーシー・リーを 友人に紹介していました。 1940年代初め、ルーシー・リーはアクセサリーやボタンを作るビミニ 工房を主宰していたフリッツ・ランプルに勧められて陶器でボタン作りを していたのです。その頃ルーシー・リーは厚く重い陶器を作らなくてはいけない、 とバーナードリーチにアドバイスされて自分の作品に自信がもてなくなって いました。 そのような時に生活の為に始めたボタン作りはウィーンで学んだ釉薬の知識を いかせるものでもあったのです。色とりどりのボタンはオートクチュールの ファッション業界にとって大きな魅力になりました。戦時中「朝も昼も夜も キャベツ!」と語ったルーシー・リーにとってボタン作りは生活を保障して くれる仕事でした。 この時期大量に作られたボタンは後に三宅一生氏のファッションショーにも 使われました。ルーシー・リーはまた、ボタンだけでなく傘の取っ手やベルトの バックル、ブローチなどのアクセサリーも陶器で作っています。 戦後、ルーシー・リーの「ボタン工場」が再開されたとき、工房は何人もの 人が働く活気ある場所になっていました。 そんな1946年のある日、仕事を求めて一人の青年がアルビオン・ミューズの 工房を訪れました。 後にルーシー・リーの無二のパートナーとなるハンス・コパーです。 この時ルーシー・リー44才、ハンス・コパーは26才でした。

ルーシー・リーが美術の教科書に!

                 ルーシー・リー「緑釉の鉢」1976年作 20年度の高校教科書(光村図書美術2)にルーシー・リーが紹介されます! 作品は杉山コレクションの「緑釉の鉢」。1976年作、ルーシー・リーおなじみの、 透明感あふれる緑にゴールドの口縁。ゴールドが緑の釉薬にとけ込んで 流れています。 教科書に載るまでにルーシー・リーが広く認識されたということは、 なんともすばらしく、陶芸界の大きなニュースでしょう。ルーシー・リー展 の企画を美術館に持ち歩き断られた日々が隔世の感があります。 作家の生まれた国で紹介するという決まりがあるとかで、ルーシー・リーは オーストリア生まれと記載されますが、ルーシー・リーにとってはさぞ 不本意なことでしょう。自分はイギリスに認められた、受け入れられた、と 誇りに思い、生存中は母国オーストリアでの展覧会開催も拒絶していたの ですから。 若い世代をも魅了するルーシー・リーの作品が教科書に載ることによって さらに多くの人たちに語られることでしょう。2009年には日本で初めての ハンス・コパー展が大規模に開催される予定です。また新たな ルーシー・リー展も企画されているようです。

ハンス・コパーの花生けの秘密

       ハンス・コパーの黒い花生け c.1974 正面から見たところ                  裏側から見たところ、HCの印章はのびやかですばらしいデザインです。               斜め横からみたところ                     真上からみた花生けの内側 ハンス・コパーの器の中をのぞいたことがあるでしょうか。 ハンス・コパーの花生けには秘密があります。といっても内部の構造ですが。 ハンス・コパーは自分の器が使われるように、と望んでいました。 いかにも使えそうにない彫刻的な形をした作品も多いのですが、それでも 使って欲しい、という言葉通りその花生けの中には細やかな気遣いがあります。 お花をする人はすぐ気がつくと思いますが、コパーの花生けには茎をささえる ために内側にも器が作られているのです。 内部の広い花生けでは生けた花の茎が中でばらばらになってしまいます。 それを押さえるための内側の器は外側の器と一体になり、二重構造に 作られています。 また外側の器自体もカップの中にうまった状態になっています。複雑な形なので どうやってこれが作られたのか興味深いところです。

ルーシー・リーとウェッジウッド - 2

1963年、ルーシー・リーはウェッジウッドから依頼されてジャスパーウェアを 制作しました。プロトタイプは全部でカップ18点、ソーサー3点の合計21点が 残されています。 9月投稿の写真は2002年5月-9月に開催されたカナダトロントの がーディナー美術館での展示ですが、上の写真はトニー・バークス著の 「ルーシー・リー」に掲載されているものです。 フォルムも掻き落とし文様もいかにもルーシー・リーそのもの。デザインが 美しく、何故ウェッジウッドでの量産が実現しなかったか大きな謎です。

ルーシー・リーとウェッジウッド

ルーシー・リーは生涯に一度だけ陶器のデザインを手がけたことがありました。 ウェッジウッドがルーシー・リーにコーヒーカップとソーサーのデザインを 依頼したのです。 ウェッジウッドから送られてきた粘土を使ってルーシーがデザインしたのは この写真を含む20数点のプロトタイプでした。いかにもルーシー・リーらしい シンプルで美しい形です。 実際は写真から受ける印象より小振りで、手のひらにすっぽりと包み込むことが できるほど、薄い繊細な器です。結局理由が明らかでないままに実現することは ありませんでした。ルーシーはこの出来事について言葉を残していませんが、 いくばくかのお金を受け取る替わりに、作品をすべて戻して欲しいと言い、 これらのプロトタイプを最後まで工房に残していました。 ハンス・コパーは、コーヒーポットやミルクジャーなど、セットすべてを 作ってからプレゼンテーションしたほうが良かったかもしれない、と語ったと 伝えられていますがこの作品が生産化されなかったことはデザイン界にとって 大きな損失であった、これが実現されていたら20世紀のデザインを大きく 変えていただろう、と「ルーシー・リー」の著者トニー・バークスは 書いています。 ルーシー・リーが1995年に亡くなったあと、これらはオークションに かけられましたが、管財人たちの意向で作品はばらばらになることなく、 ノーリッチにあるセインズベリーセンターにまとめて納められました。

ハンス・コパーとルース・ダックワース

7月の初めにイギリス、ウェールズ地方のアベイストウィスというところで セラミックフェスティバルが開かれました。アメリカのNCECA(エヌシーカ、全米 陶芸教育会議)とよばれる催しに似た陶芸家の一大イベントです。 そこにアメリカからルース・ダックワースが招待されレクチャーを することになっていた、と誰もが信じて楽しみにしていたのですが、 空港まで行って出国できなかったというのです。3週間前にパスポートが 切れていてそれに気がつかなかったことが原因でした。 そこで彼女のエイジェントであるシーア女史が変わってレクチャーを行い、 その最後にルース・ダックワースがアメリカから電話に加わり 質問に答えることになりました。 ルース・ダックワースは現在88才ですが、コミッションをまだ沢山 かかえ、作陶を続けています。 会場から「貴女の一番好きな陶芸家は誰ですか?」と質問があがりました。 「私の好きな陶芸家?もちろんハンス・コパーよ。彼はすばらしい アーティストでした。ハンス・コパーの作品は本当に美しい。 すばらしい作品を創るすばらしい人でしたよ」 ルース・ダックワースはルーシー・リーやハンス・コパーと同じように、 ナチスを逃れてイギリスに亡命した一人でした。ドイツのハンブルグにユダヤ人 として生まれ育ちましたが、ホロコーストの困難な時代でした。 「親友が突然、口をきいてくれなくなりました、彼女はナチスでした」 17才の時家族でイギリスに亡命、リバプールアートスクールに入ります。 面接の時、校長に何を勉強したいか聞かれ、 「デッサン、絵画、彫刻と答えたらその中から選ばないといけないと 言われました。だから、何故?ミケランジェロは全部を学んだでしょう、と 言ったの。私はとても未熟な17才でした」 1960年代なかば、ハンス・コパーがアメリカのシカゴ大学から陶芸を 教えて欲しいと依頼を受けました。しかしハンスは断り、その替わりに ルース・ダックワースが招待されたのです。それ以降ダックワースは アメリカで作陶を続けています。 ダックワースはルーシー・リーよりハンス・コパーの作品に、より近い物を 感じる、と語っていますが、「創ることよりほかにおもしろいと思うことは ない」という言葉に、88才まで作陶を続けたルーシー・リーの姿勢が 重なります。