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ルーシー・リー展に続いてハンス・コパー展



ミッドタウンの21_21デザインサイトで三宅一生氏による
うつわ展が開かれ、ルーシー・リーの作品が展示された。
いろんな方からいろんな感想がヒュース・テンにも
寄せられ、またテレビの日曜美術館や美の巨人に
取り上げられて大きな話題を呼んだ。

ルーシー・リーの人気は留まるところを知らない。

ルーシー・リーを語るとき、どうしてもハンス・コパーを
とりあげなくては片手落ちというものだろう。

ハンス・コパーとルーシー・リーは終生変わらぬ友情で
堅く結ばれていた。お互いが出会わなかったらその後の
ルーシー・リーの作品もハンス・コパーの作品も
あり得なかったといえるほど、大きな影響を与え合った。

ルーシー・リーは新しい形を作るたびにハンス・コパーの
コメントを求め、ハンス・コパーもまたディグズウェルの
アーティスト村に移ってからも古いタクシーを買って
アルビオンミューズのルーシー・リー工房とディグスウェル
を往復した。

ルーシー・リーが「本物のアーティスト」と称したその
終生の無二の友人、ハンス・コパーの展覧会が9月に
開催される。

ヒュース・テンの企画で兵庫陶芸美術館、信楽の陶芸の森、
磯崎新氏の設計による岐阜県現代陶芸美術館、東京の
汐留ミュージアム、他を巡回予定だ。約130点を展示する
世界初の本格的なハンス・コパー回顧展となる。
ルーシー・リーの作品も代表的なものが20点余り展示される。

行方不明とされていた、建築と一体になった
ハンス・コパーの壁の作品が初めて公に展示されることに加え
さらに国外に出ることのなかったドイツの所蔵家からも
作品が出品される。

その造形は飽くことなき形の追求、シンプルで無駄のない
研ぎ澄まされた形と表情で見る者を魅了する。
どうぞみなさん兵庫までハンス・コパーとルーシー・リーに
会いにいらしてください。

Comments

citystone said…
Dear Sora ジェニファー・リーの展覧会(日本での)などが
ありましたら、スケジュールなどを教えてください。
sora said…
citystoneさま
こんなあきれるほど長い間コメントに気が付かずごめんなさい。ジェニファー・リーさんの展覧会について今日本で予定されていかはわかりません。ただ、来春日本に来られるかもしれないと聞いています。その頃展覧会のお知らせがあればこの欄でご報告させていただきます。来春は国立新美でルーシー・リー展があります!
Unknown said…
http://www.galleryhu.com/top/
Unknown said…
5人展ですがジェニファー・リーの展覧会開催中です。

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ルーシー・リーの釉薬レシピ

Rie Archive from Crafts Study Center Vads ルーシー・リーの釉薬のレシピが昨今いろいろなところで紹介されている。それらには『生誕 100年記念 ルーシー・リー展 静寂の美へ』(2002年、展覧会は陶芸の森、ミウラート美術館、ニューオータニ美術館を巡回)の展覧会カタログに掲載されている、ナイジェル・ウッド氏の特別寄稿「ルーシー・リーの素材と技法」を参照しているものが少なくない。彼が、ルーシー・リーの釉薬ノートを最初に精査した研究者のひとりだからだ。 ナイジェル・ウッド氏はイギリスのオックスフォード大学首席客員研究員で中国陶磁器の釉薬についての研究における世界的権威だ。上に紹介した図録ではルーシー・リーの残した釉薬ノートを研究して詳細に分析、その技法やレシピを、その図録で紹介している。 ウッド氏は、ルーシー・リーの最大の功績のひとつは電気窯であれほどの豊かな作品を創り出したことにある、と述べている。これは当時、バナード・リーチを始めとするストーンウェアの作家たちの間に、炎による還元焼成でなければストーンウェアの焼成はあり得ないといった共通の認識があったためだ。 リーチは電気窯での焼成を「死んだ火、死んだ焼成」と言っていたほど燃焼窯による還元焼成にこだわった。ところがウッド氏は、   「 ルーシー・リーの作品は酸化焼成である。言い換えれば、彼女は   電気窯の澄んだ 酸化雰囲気で作品を焼成しているのだ。ルーシー・リーが   初めてストーンウェアを作り出したのは、1948年から1949年にかけての   冬であったが、当時もっともストーンウェアに取り組んでいた陶芸家たちは、   たいてい薪窯やガス窯、石炭や石油の窯など、直火の窯で還元焼成していた。   炎の出る燃料を使った還元焼成の方が、窯の中がわずかに煙った還元雰囲   気味になり、粘土素材と釉薬の両方に含まれている酸化した鉄分が作品に   豊かな表情をもたらすからだ・・・・・・・(略)・・・・・   ルーシー・リーは、このような酸化鉄には関心をもたず、他の着色剤や   乳白剤、たとえば二酸化マンガン、ウラン酸ナトリウム、酸化スズ、   酸化亜鉛などを好んで使用した。   ルーシー・リー

バーナード・リーチとルーシー・リー

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ルーシー・リーのボタン

「ウィーンからきたボタン作り」とバーナード・リーチはルーシー・リーを 友人に紹介していました。 1940年代初め、ルーシー・リーはアクセサリーやボタンを作るビミニ 工房を主宰していたフリッツ・ランプルに勧められて陶器でボタン作りを していたのです。その頃ルーシー・リーは厚く重い陶器を作らなくてはいけない、 とバーナードリーチにアドバイスされて自分の作品に自信がもてなくなって いました。 そのような時に生活の為に始めたボタン作りはウィーンで学んだ釉薬の知識を いかせるものでもあったのです。色とりどりのボタンはオートクチュールの ファッション業界にとって大きな魅力になりました。戦時中「朝も昼も夜も キャベツ!」と語ったルーシー・リーにとってボタン作りは生活を保障して くれる仕事でした。 この時期大量に作られたボタンは後に三宅一生氏のファッションショーにも 使われました。ルーシー・リーはまた、ボタンだけでなく傘の取っ手やベルトの バックル、ブローチなどのアクセサリーも陶器で作っています。 戦後、ルーシー・リーの「ボタン工場」が再開されたとき、工房は何人もの 人が働く活気ある場所になっていました。 そんな1946年のある日、仕事を求めて一人の青年がアルビオン・ミューズの 工房を訪れました。 後にルーシー・リーの無二のパートナーとなるハンス・コパーです。 この時ルーシー・リー44才、ハンス・コパーは26才でした。