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メトロポリタン美術館でのルーシー・リー、コパー展

ハンス・コパーとルーシー・リーの二人展がニューヨークの
メトロポリタン美術館で開催されたのは1994-5年のことだ。

きっかけは長年ファインアートの
美術館で二人の展覧会を開催したいと願っていたルーシー・リーの
友人でBBCのフィルムにも貢献したシリル・フランケルだった。

二人展またはそれぞれの展覧会は個人のギャラリーでは
数多く開催されてきた。けれどアメリカで国立の美術館が個人の
陶芸家の作品を展示したのはメトロポリタン美術館が
初めてだった。イギリスのテイト美術館でもなしえなかったことだ。

この5年ほど前、シリル・フランケルがメトロポリタン美術館を訪れ
ハンス・コパー、ルーシー・リーの二人展企画を持ち込んだとき
美術館はやんわりと拒絶した。

しかし時は移り、1993年、メトロポリタン美術館の
20世紀デザインと建築部門の新しいコンサルタント、
ステュワート・ジョンソン氏が今度はシリル・フランケルの
オフィスを訪れる。

「美術館は装飾美術の展覧会をしてこなかった。一体いつ
テイト美術館で器の展覧会をしたかね?メトロポリタン美術館は
今や陶芸というクラフトと彫刻というアートの橋渡しをするのです」

これがステュワート・ジョンソン氏の説明だった。

シリル・フランケルは、これで美術史はイギリスにおける
20世紀の巨匠としてヘンリー・ムーア、フランシス・ベーコン
ルシアン・フロイド、そしてルーシー・リーとハンス・コパー
をノミネートするだろうと確信したのだった。

こうしてニューヨークタイムズの美術面

FATE BROUGHT LUCIE RIE AND Hans Coper together
(運命がルーシー・リーとハンス・コパーの出会いを
もたらした)

という書き出しの紹介記事(by Rita Reif)が書かれ、
ニューヨークで初めての二人展が開催された。

この時ハンス・コパーはすでに亡くなって13年が過ぎ、
ルーシー・リーはこの展覧会の会期が終わる頃ロンドンの
自宅でひっそりと息をひきとった。

この展覧会に出品されたルーシー・リーと
ハンス・コパー作品の一部は、今年9月からの
兵庫美術館ハンス・コパー展にも出品されます。


参考:インディペンダント紙1994年10月22日

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