Skip to main content

NHK日曜美術館ハンス・コパー

「そして不思議な形だけが残った 
    - 世紀の陶芸家ハンス・コパー」

NHKの日曜美術館ハンス・コパー紹介の番組では最後まで
タイトルの検討がなされましたがほぼ上のタイトルになる
ようです。

コパーは亡くなる前、書き残したもの、手紙、自分に
かかわるすべてを焼くようにと言葉を妻のジェインさんに
残しました。自分の痕跡を消そうとした作家。作品だけで
自分を伝えようとした作家。残された資料があまりに
少なく、コパーを直接知る人も高齢なため、このフィルムは
陶芸界にとって非常に貴重な資料となることでしょう。

病に冒され作る事はもちろん、話す事も困難になっていくとき
それでもキクラデスフォームを片手で作り続けたコパー。
そしてあとに何も残さない事を願ったコパー。どんな気持ちで
そう遺言したのでしょう。

8月22日の放送に向けてスタジオ収録が行われました。
スタジオでは兵庫陶芸美術館館長の乾先生がゲストとして出演され
姜 尚中さんとアナウンサーの中條さんとの対話でビデオ映像を
見ながらコパーが紹介されます。

実際の作品を前にしての解説なので、より一層、語られる作品を
身近に感じる事ができるでしょう。

ハンス・コパーは「どう作るかではなく何故作るか」を生涯
問い続けた作家でした。HOWではなくWHYが大切だとロイヤル
アカデミー大学院で生徒にいつも語ったということです。

姜 尚中さんの、

「何故作るかを問う事は
何故生きるかを問う事に繋がる」

という言葉はコパーの作品を深く理解した人の解釈として
心に響きます。

「ハンス・コパー展 20世紀陶芸の革新」は9月5日まで
汐留ミュージアムで開催されています(8/12〜16日は夏休み)。
このあと岐阜県現代陶芸美術館、岩手県立美術館、静岡市美術館
に巡回します。

8月22日の日曜美術館をぜひご覧ください。

Comments

Popular posts from this blog

ルーシー・リーとハンス・コパー物語 16  ナチスの台頭とユダヤ人迫害

自分の工房と窯を備えたルーシーが一層作陶に没頭しつつあったその頃、政治的には緊迫した動きが起こりつつあった。 1938年パスポート「ルーシー・リー モダニズムの陶芸家」より ニューヨーク・タイムズで「運命が二人の出会いをもたらした・・・」と紹介されたイギリスの陶芸家ルーシー・リーとハンス・コパーは、バーナード・リーチとともに20世紀陶芸の巨匠と目されます。二人はナチスから逃れてロンドンで出会いますが生涯稀有のパートナーシップと友情で結ばれ、彼らの作品はお互いを抜きに語ることはできないと言われます。その二人の物語を紹介していきます。 ドイツが国際連盟から脱退し、ドイツのユダヤ人が医療関係の職に就くことが禁じられ公民権が剥奪された。しかしそのような状況であっても、オーストリアの多くのユダヤ人はその脅威を正確に認識していなかったかのようだった。ルーシーの両親もまた逼迫した環境にあることを認識していなかったように見える。 多くのユダヤ人の間では、オーストリアでナチス政権のような政府は起こりえないしそれほど悪い状況になるわけはないと楽観的な見方が蔓延っていた。戦争の足音はいつの世でもひっそりと早足でやってくるかのようだ。 ドイツとオーストリアの関係は悪化し、ヒトラーの要求に応じないオーストリアのフォン・シュシュニック首相は辞任に追い込まれ、やがてある日ドイツ軍がオーストリアとの国境を超えた。ヒトラーがウィーンに入り、ヒトラーはウィーンの市民に熱狂的に迎えられた。ドイツによるオーストリア併合「アンシュルス」は予期しないスピードで進められ、ユダヤ人迫害はドイツ国内より厳しく進められた。 ルーシーが今まで親しくしていた友人たちもユダヤ人であるルーシーに突然声をかけなくなったと、のちにロンドンに亡命したルーシーは、ルーシーの伝記を書いたトニー・バークスに語っている。ユダヤ人の女性たちは一列に並び道路に跪いての清掃を強制されたり、ナチス親衛隊による昼夜を問わないユダヤ人の大量逮捕が始まった。 ルーシーが近しく親しんでいた祖母のヘルミーナ・ヴォルフは86才で亡くなり、続いて胃癌と診断された父親が亡くなり母のギーゼラ・ゴンペルツも1937年に亡くなった。大好きな叔父のサンダー・ヴォルフもイスラエルのハイファに逃れた。今やルーシーたちをウィーンに留めるものはなかった...

ルーシー・リーとハンス・コパー物語 12 ルーシーの結婚

1926年シシリー島でのハネムーン crafts study centre 1926年アイゼンシュタットにて 『ルーシー・リー モダニズムの陶芸家』より ニューヨーク・タイムズで「運命が二人の出会いをもたらした・・・」と紹介されたイギリスの陶芸家ルーシー・リーとハンス・コパーは、バーナード・リーチとともに20世紀陶芸の巨匠と目されます。二人はナチスから逃れてロンドンで出会いますが生涯稀有のパートナーシップと友情で結ばれ、彼らの作品はお互いを抜きに語ることはできないと言われます。その二人の物語を紹介していきます。 1926年、 ヨーロッパで最初の革新的な美術学校となった工業美術学校を卒業すると、才能があり勉強熱心であったルーシーは、ポヴォルニーから誘われて彼の工房に場所を借りて自分の仕事をすることが出来た。また、エッセンでの国際展にルーシーのポットが展示されたこともあり、独立するに十分な注文も受けていた。 一方ルーシーは淡い思いを抱いていたエルンスト・リーが山の遭難事故で亡くなって以来、喪失の思いを共有していたエルンストの弟ハンスと気持ちが近しくなっていた。家族ぐるみの付き合いが続き、やがて卒業と同時に結婚することが進められた。 夫となるハンスは、フェルト帽工場のマネジャーとして有能で、将来が約束されていた。ルーシーも制作を続けていこうとしていた。 強い結びつきで知られるユダヤ人家族の一人娘として、ルーシーの実家の一部を改造して新婚の二人が住むことは、とりあえずの若いカップルの堅実的な選択であったのかもしれない。 二人がルーシーの実家に住むことで、ルーシーへの器の注文を父や母が代わりに受けることもあった。カラフルなフィギャーや装飾性の高いツボなどで名高いゴールドシャイダーセラミックス社が、ルーシーの作品の一点を製品化して1928年に展示したとの記録もあり(母ギーゼラからルーシーに宛てた手紙)、後にウェッジウッドからの申し出の経緯を考えると興味深い。 ただし伝統的な妻になることを期待する両親との同居は様々な葛藤も生んだ。ルーシーは両親の定期的な休暇によって家や使用人の の管理を任されることや、家族への義務、ゴンペルツ家に夫ハンスが溶け込むことを要求されると感じていた。また作品制作にもっと時間を使いたいと望んだ。 ...

ルーシー・リーとハンス・コパー物語 11 ウィーン時代のルーシーの釉薬

ピンホール釉薬として知られる Crafts Study Centre 1930年代 ロッテ・マイトナー・グラフ撮影 ニューヨーク・タイムズで「運命が二人の出会いをもたらした・・・」と紹介されたイギリスの陶芸家ルーシー・リーとハンス・コパーは、バーナード・リーチとともに20世紀陶芸の巨匠と目されます。二人はナチスから逃れてロンドンで出会いますが生涯稀有のパートナーシップと友情で結ばれ、彼らの作品はお互いを抜きに語ることはできないと言われます。その二人の物語を紹介していきます。 当時、ポヴォルニーの作るフィギャーやクラスメートの作るカラフルで装飾性に富んだ作品が主流を占めていた陶芸環境にあって、ルーシーの作る器がシンプルなフォルムや色であったことは特異なことに思えるが、その点ではホフマンのミニマルな形やモダニズムに、また初期のウィーン工房の精神に、より影響を受けたと思われる。 ルーシーの関心はもっぱら釉薬にあり、工業美術学校時代、その実験に没頭していた。その頃書き留めた実験の釉薬ノートの数々は、のちにロンドンに亡命してからのボタン作りや作品に大いに生かされている。 ルーシーの釉薬ノートには工業美術学校時代に行った数々の実験の結果やこの頃開発した釉薬が細かく書かれている。その釉薬ノートを詳しく調査したオクスフォード大学の上級研究員ナイジェル・ウッド氏はルーシーが「しばしば釉薬そのものを装飾とした」と表現している。 通常「ピンホールを美しいと思う陶芸家はまれであるだろう。しかしルーシーはこの減現象に日を見出す鋭い洞察力と完成を持ち合わせていた・・・(中略)・・初期の頃の家庭用食器に使用した標準的な透明釉に酸化亜鉛が高い比率で含まれていたためピンホールが発生したのかもしれない。また、釉薬を刷毛で塗る技法もピンホールを発生させやすい。特に乾燥した生地に釉薬を塗る場合よりも、釉薬を重ね塗りするときに空気を取り込んでしまうことが多い。ルーシーの釉薬は特別粘着性が高いので、窯にいれても空気の泡が残り、表面に細かい空気穴を大量に残しやすい」 (「生誕100年記念ルーシー・リー展 静寂の美へ」カタログのナイジェル・ウッド氏エッセイより) 後にルーシーは「溶岩釉」として知られる、シリコンカーバイドを使った厚い泥漿・釉薬を好んで使用するが、す...