Sunday, November 22, 2009

ハンス・コパーのかたち - キクラデス-2

from Bonhams catalogue

HANS COPER
from Phillips de Pury & Company catalogue

これは両方ともキクラデスのチューブ・フォームとよばれるかたちだが
上はベースと本体の2つのパーツから構成され、下の作品はベースを
含め3つのろくろ挽きされたパーツから成る。

極細い一点でベースと接続している点では他のキクラデスフォームと
同じだが、よりシンプルにまっすぐ上に延び、上部を両面から
押して楕円にしている。

下の作品の白い水平線がアクセントになって強いインパクトを与えて
いるがこれは実際にパイプ状の支柱(つく)にさして焼成した跡だ。
もちろんハンス・コパーはこれを意図して作っているだろう。

Saturday, November 21, 2009

ハンス・コパーのかたち - キクラデス-1

from Bonhams HP




Hans Coper at Galerie Besson
photo from Galerie Besson HP

ハンス・コパーのかたちで最も有名なのはキクラデス形だろう。
シンプルで考え抜かれた究極のかたち。時を超えた
はるかな昔に作られ、掘り出されたかたち。

これ以上削ぎ落とすところのないぎりぎりのかたち。鋭く
緊張感に溢れ、見る者の目を捉えて離さない。

ブランクーシを想起させる
キクラデスフォームという名前は妻のジェイン・コパーが
つけた愛称だ。背の高い細い形をこのように呼び
「あのキクラデスは、、、」という言い方ですぐに
ハンス・コパーにも通じたという。

キクラデスと呼ばれる形にはキクラデス・アロー・フォーム
とか、キクラデス・チューブ・フォームとかいくつかの
バリエーションがある。

本体は少なくとも3つのパーツに分けてろくろ挽きされ、
それを合接して焼成している。ベースと本体は焼成後に
金属の芯を通して、極めて細い一点で接着されている。

Thursday, November 12, 2009

NHKアートシーンで紹介されます!

先日、NHKのアートシーンの撮影の方がハンス・コパー展
取材のために兵庫陶芸美術館に来られました。
今月15日午前9:00からの日曜美術館を
ご覧になって下さい!

「アートシーン」は最後の15分にいくつかの展覧会を
紹介するプログラムです。短い時間ですが、
兵庫陶芸美術館でのハンス・コパー展の様子をご覧頂く
ことができます。

ハンス・コパーの作品の魅力がきっと伝わることでしょう。
それで本物を見たくなったらどうぞ兵庫県相野の美術館まで
足をお運びください。

緩やかな山に囲まれた美術館でコパーに出会う。それから
ゆっくりと美術館のレストランでランチ、というのは
いかがでしょう。兵庫陶芸美術館のレストランはそれだけを
(では困るけれど!)目的に来られる方もいるほど
おいしいのです!!

兵庫でのハンス・コパー展はあと3週間足らずで終了します。
残り僅かですが、チケットご希望の方は下記まで
ご連絡ください(チケット配布はなくなりしだい終了しますので
ご了承ください。)

電話番号    03-5930-1133
ファックス番号 03-5930-3311

Sunday, September 27, 2009

兵庫陶芸美術館でハンス・コパー展開催



いよいよ兵庫陶芸美術館でのハンス・コパー展が始まった。

オープニングレセプションにはヨーク美術館からのクーリエの
方も出席。主催者の乾館長初め神戸新聞の方々のごあいさつがあった。

乾館長は実際にハンス・コパーにお会いになった数少ない日本人の
お一人だ。ルーシー・リーの工房を訪問した時にハンス・コパーが
わざわざアルビオン・ミューズの工房に来て待っていて
くれたという。京都国立近代美術館で開催する
「現代の陶芸ーヨーロッパと日本」展での出品依頼のためだった。
1969年のことだろうか。

乾先生はカタログのエッセイの中で

「ハンス・コパーは、陶芸という芸術の分野において、20世紀が
生んだもっとも独創的で、そしてもっとも傑出した作家である」

と書いておられる。またコパーの芸術に対しての総論というべく
コパーの生い立ちからコパーのかたち、技法、その芸術を
あますところなく伝え、

「(20世紀後半という時代にあっても)、、、、コパーの陶芸は、
際立って革新的だった。陶芸という芸術の自立性を厳しく
保ちながら、これほど透徹した美感と確固とした存在感をもつ
作品を創造した作家は稀有である。、、、」

と非常に感動的な文章を書かれている。

コパーの作品写真を見ながらこの文章を読むと、コパーの
生きた時代と困難に遭いながらもそこで確実な意志をもって
卓越したものを追い求めるコパーの後姿が浮かんでくるようだ。

展覧会では初めてハンス・コパーを見るという方がほとんど。
一様にすごい、来て良かった、感動した、という言葉を残して
くださる。

ヨークシャーの学校の壁にはめ込まれていた実際の作品を
埋め込んだ壁の再現から身体が不自由になって片手で
作り続けた小さな作品まで、静謐な美の世界。

最後の部屋はいわば互いを抜いては語れない生涯友情をはぐくんだ
ルーシー・リーの作品も一緒に展示されている。

Sunday, August 23, 2009

キクラデス・フォーム


ハンス・コパーはミケーネやエジプトの古代文明に魅せられ
さまざまな形をシリーズで作った。コパーはそれをファミリー
とよび、サイズを変えプロポーションを変えどれもが一つの
形から次々と展開された。

そのひとつにキクラデス・フォームとよばれる細く上にのびる
形がある。見た瞬間に心を捉える、または心を射るという
表現が適切かも知れない。それは力でもなく奇をてらうでもなく
ただ静かにそこに在るのだが心を捉えて離さない。

その原型、遙かな昔に人々の祈りの対象であったのか豊穣を
願うのであったか顔のない、手を前に組んだ不思議な形が
大英博物館に常設展示されている。コパーは寒さを逃れるため
この博物館によく足を運んだという。

そこで幾度となく古い文明の生み出した作品を見たことだろう。
自分のハマースミスの工房にも大英博物館で開催された
展覧会のキクラデス像のポスターを壁に貼っていた。

また、何の変哲もないただの丸い壺、遠い昔のエジプトのつぼを
いつも傍らに置いていた。コパー自身の作品も時を超え空間を
超えてかなたからやってきた存在であるように感じられる。

Friday, July 24, 2009

ハンス・コパーのディグズウェル時代










ハンス・コパーは1959年、教育者だったヘンリー・モリスに
誘われてディグズウェルの、いわばアーティスト村に
移り住んだ。そこにはすでに織りのピーター・コリングウッドを
はじめとした彫刻家や画家が移り住んでいた。

ここでコパーは多くの芸術家や建築家と出会う。
音響効果のあると言われたタイルのデザインや数理的タイル
と言われる組み合わせタイル(従来のレンガの壁に対して
薄く作ることが出来る)も作っている。量産され
様々な壁材として使われた。

また、ロンドンから2時間ほどのコベントリー大聖堂の燭台は
今も大聖堂の祭壇両脇に3本ずつ置かれている。この燭台の
マケットも9月からのハンス・コパー展で展示されます。

また同じコベントリー大聖堂には、あまり知られていないが
そろばん形の燭台もある。以前は持ち運んで使っていたが
今は価値があまりに高くなって安全のため木製のテーブルに
固定されている。

聖職者の宿舎の庭には同じくハンス・コパーの作った巨大な
花生けが半ば放置されている。6,7個残されているが
その一つには花が植えられていた。ただし、あまり手入れの
されていない様子だ。フェスティバルの時、野外で
花を生けたり植え込んだりして使うのだということだ。
(コパーは一時期グラスファイバーとセメントを混ぜて型を
作ったことがあるので、この植木鉢も恐らくコパーが型を作り、
コンクリートでいくつか作られたものと思われる)

Thursday, July 02, 2009

ハンス・コパー展の作品

9月12日から兵庫陶芸美術館で立ち上がる
「ハンス・コパー展 - 20世紀陶芸の革新」では
ハンス・コパーの作品約120点はもとより、ドローイング、手紙、
ブロンズのポット、ハンス・コパー作ルーシー・リーの胸像、
娘と息子を描いたデッサンなど、ハンス・コパーを
芸術家として全体像を見せる回顧展となっている。

またハンス・コパーの芸術との深い関係を示唆する
ルーシー・リーの作品約30点を展示予定です。

メトロポリタン美術館の20世紀デザイン部門コンサルタント
J. ステュワート・ジョンソン氏はルーシー・リーとハンス・コパー
の二人展をアメリカの美術館で最初に開催した人物だが
こう述べている。

Without her, he never would have happened as a ceramist.
Without him she might not have returned to serious potting.

ルーシー・リーと出会わなかったらハンス・コパーは
陶芸家になることはなかったであろうし、彼女もまた
ハンス・コパーがいなかったら本来の作陶にもどることは
なかったかもしれない。

この言葉はとても控えめに述べられている。実際お互いの
助言や存在がなかったら今に残る作品群はあり得なかった
だろう、と多くの人が考えている。

これはバーナード・リーチがルーシー・リーの作品について
あまりにも人為的で謙虚さがない、と批判し、ルーシー・リーが
自分の作品に対して自信を失っていたからだった。

リーチの批評に打ちのめされていたルーシー・リーが
ハンス・コパーの

「自分の作りたいものを作ればよい、
自分の本来の作品にもどって」

と励まされて、その後の様々な形、色、見る人を魅了する
作品が生まれたことを指す。

ハンス・コパーはどちらかというとルーシー・リーの助手
または生徒と見なされ、そのように捉えた文章も見かけるが
実際は逆の立場だった。リーがコパーの意見を求め
相談し常にコパーの創造性を高く評価していた。

ルーシー・リーにとってハンス・コパーの作品こそが
他の誰も追従をゆるさない唯一の優れた作品だった。

これはハンス・コパーをロイヤル・アカデミー・オブ・アート
の講師として招いたデイヴィド・クイーンズベリー卿が
次のように述べたことにも表れている。

「ルーシー・リーにとってはハンスの作品が最高であって
他に見るべきものはなかった。
生徒であれプロであれ他の人の作品はウーン、といって
けなしたからね。
その点ハンス・コパーはどの生徒の作品も褒めて
その生徒本来の良さを引き出すことのできる
優れた教師だった」

Thursday, June 25, 2009

メトロポリタン美術館でのルーシー・リー、コパー展

ハンス・コパーとルーシー・リーの二人展がニューヨークの
メトロポリタン美術館で開催されたのは1994-5年のことだ。

きっかけは長年ファインアートの
美術館で二人の展覧会を開催したいと願っていたルーシー・リーの
友人でBBCのフィルムにも貢献したシリル・フランケルだった。

二人展またはそれぞれの展覧会は個人のギャラリーでは
数多く開催されてきた。けれどアメリカで国立の美術館が個人の
陶芸家の作品を展示したのはメトロポリタン美術館が
初めてだった。イギリスのテイト美術館でもなしえなかったことだ。

この5年ほど前、シリル・フランケルがメトロポリタン美術館を訪れ
ハンス・コパー、ルーシー・リーの二人展企画を持ち込んだとき
美術館はやんわりと拒絶した。

しかし時は移り、1993年、メトロポリタン美術館の
20世紀デザインと建築部門の新しいコンサルタント、
ステュワート・ジョンソン氏が今度はシリル・フランケルの
オフィスを訪れる。

「美術館は装飾美術の展覧会をしてこなかった。一体いつ
テイト美術館で器の展覧会をしたかね?メトロポリタン美術館は
今や陶芸というクラフトと彫刻というアートの橋渡しをするのです」

これがステュワート・ジョンソン氏の説明だった。

シリル・フランケルは、これで美術史はイギリスにおける
20世紀の巨匠としてヘンリー・ムーア、フランシス・ベーコン
ルシアン・フロイド、そしてルーシー・リーとハンス・コパー
をノミネートするだろうと確信したのだった。

こうしてニューヨークタイムズの美術面

FATE BROUGHT LUCIE RIE AND Hans Coper together
(運命がルーシー・リーとハンス・コパーの出会いを
もたらした)

という書き出しの紹介記事(by Rita Reif)が書かれ、
ニューヨークで初めての二人展が開催された。

この時ハンス・コパーはすでに亡くなって13年が過ぎ、
ルーシー・リーはこの展覧会の会期が終わる頃ロンドンの
自宅でひっそりと息をひきとった。

この展覧会に出品されたルーシー・リーと
ハンス・コパー作品の一部は、今年9月からの
兵庫美術館ハンス・コパー展にも出品されます。


参考:インディペンダント紙1994年10月22日

Wednesday, June 03, 2009

ハンス・コパーのかたち

click to view exhibition preview
Galerie Besson HPより

ハンス・コパーは今生きていたらどんな作品を作っただろう。
よく、そんなことを考える。

ハンス・コパーの作業台にはのちのちに作品となって現れるフォルムが
ごく初期の頃から沢山現れる。最後に身体が不自由になっても片手で
キクラデス形の作品を作り続けた。病気が進行するにともなって作品の
大きさはどんどん小さくなったけれど、フォルムはいっそう研ぎ澄まされ
洗練されより完璧になっていったと思う。

ロンドンにある陶磁器のギャラリー、Galerie Besson(ギャラリーベッソン)
でピーター・コリングウッドとハンス・コパーの二人展が今日から
開催される。ハンス・コパーは陶芸家、ピーター・コリングウッドは
織りの作家だ。

美術館での最初で最後となる二人展が実現したのは1969年、
ロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート美術館だ。
この展覧会はV&Aにとっても現存作家の作品展を行うという
画期的なものとなった。当時最初に美術館から声をかけられたのは
コリングウッドだった。

「僕の方がV&Aから最初に誘われたんだよ」と自慢げに言っていた
コリングウッドはコパーを最初から高く評価していたアーティストだ。
2002年のカナダのがーディナー美術館でのコパー展でも
コパーについての資料をまとめてレクチャーしていた。

コリングウッドも亡くなった今そんな二人の作品展が開かれるとは
興味深い。ギャラリーベッソンはルーシー・リーとハンス・コパーの
作品を多く扱っている老舗中の老舗、ベッソン女史はコリングウッドは
もちろん生前のリーやコパーを知る数少ない一人だ。

もちろん売ることが目的の展覧会だが、年に一度はリーやコパーの
作品展をしている。ギャラリーベッソンは価格が高いことでも
有名で初期の頃から晩年にいたるまでのコパーの作品を持っている。

一方コリングウッドは日本にも縁のある作家だ。
1966年には桐生市文化センターに天井からつり下がる
大きなステンレス糸を織った作品がある。その時のコミッション
についてはタイムズ紙に記事も掲載された。

コリングウッドの愛弟子にあたる染織家冨田潤氏は京都で
活躍している作家だ。

Friday, May 29, 2009

ハンス・コパー幻のミューラル発見

白い壁に設置されたディスクの美しさは思わず息をのむほどです。
ディスクの中心は壁の向こうへと続く、風が流れる、空間が繋がる
日本での展示のため、壁から取り外す。壁の両側からアートハンドラーが支えながら作業します。

1959年、ヘンリー・モリスによってディグズウェル美術基金が
創設されトータルな芸術村構想が実現しました。
ハンス・コパーはその招待作家として参加、工房を持ち
タイルや衛生陶器など、建築の仕事を多く手がけました。

そこでミューラル(壁面装飾)をいくつか制作しましたが、
多くは取り壊され今では記録に残るだけの「幻のミューラル」と
されていました。

今回ヨークシャーにあるスウィントンスクールの
壁面に残されているミューラルがいわば「再発見」され
初めて公の場に展示されました。

日本でのハンス・コパー回顧展に出品のため、
学校の壁から取り外され修復作家によってクリーニングされて
新たな壁に再現されたものです。

ロンドンのサーッチギャラリーに展示されましたが、
展示の前からハンス・コパー ミューラル発見の
うわさが大きな話題を呼び、美術館関係者はもちろん
ギャラリー、コレクター、アーティスト等がおしよせました。

その美しさ静謐さ構成の卓越さ、再現された空間の圧倒的な
力強さは見る人を魅了して止みません。9月12日、それが
いよいよ日本にやってきます。

ミューラルのディスク(円盤)は壁の向こうにも同じディスクが
設置されてディスク中心の空間は壁の向こうにつながっています。
学校に設置されていたときは生徒がダーツを飛ばして遊ぶので
間にガラスが入れられました。

今回はハンス・コパーが設置したと同じ状態で空間はそのまま
壁の向こうへと続きます。そこに貴方は何を見るでしょうか。

Thursday, May 14, 2009

ルーシー・リー展に続いてハンス・コパー展



ミッドタウンの21_21デザインサイトで三宅一生氏による
うつわ展が開かれ、ルーシー・リーの作品が展示された。
いろんな方からいろんな感想がヒュース・テンにも
寄せられ、またテレビの日曜美術館や美の巨人に
取り上げられて大きな話題を呼んだ。

ルーシー・リーの人気は留まるところを知らない。

ルーシー・リーを語るとき、どうしてもハンス・コパーを
とりあげなくては片手落ちというものだろう。

ハンス・コパーとルーシー・リーは終生変わらぬ友情で
堅く結ばれていた。お互いが出会わなかったらその後の
ルーシー・リーの作品もハンス・コパーの作品も
あり得なかったといえるほど、大きな影響を与え合った。

ルーシー・リーは新しい形を作るたびにハンス・コパーの
コメントを求め、ハンス・コパーもまたディグズウェルの
アーティスト村に移ってからも古いタクシーを買って
アルビオンミューズのルーシー・リー工房とディグスウェル
を往復した。

ルーシー・リーが「本物のアーティスト」と称したその
終生の無二の友人、ハンス・コパーの展覧会が9月に
開催される。

ヒュース・テンの企画で兵庫陶芸美術館、信楽の陶芸の森、
磯崎新氏の設計による岐阜県現代陶芸美術館、東京の
汐留ミュージアム、他を巡回予定だ。約130点を展示する
世界初の本格的なハンス・コパー回顧展となる。
ルーシー・リーの作品も代表的なものが20点余り展示される。

行方不明とされていた、建築と一体になった
ハンス・コパーの壁の作品が初めて公に展示されることに加え
さらに国外に出ることのなかったドイツの所蔵家からも
作品が出品される。

その造形は飽くことなき形の追求、シンプルで無駄のない
研ぎ澄まされた形と表情で見る者を魅了する。
どうぞみなさん兵庫までハンス・コパーとルーシー・リーに
会いにいらしてください。

Friday, February 13, 2009

ミッドタウンデザインサイトでのルーシー・リー展



ミッドタウンデザインサイトでの「U-Tsu-Wa/うつわ」展で昨夜、
オープニングレセプションが開かれた。1989年の草月会館での
ルーシー・リー展と同じスタイルだ。安藤忠雄氏による水の
デザイン。

水面に浮かぶアクリル台にひとつひとつルーシー・リーの器が
浮かんでいる。色を抑えた作品を集めている。

近づいて見ることはできないので細かな表情を見たい人にとっては
欲求不満が残るけれど、器のシルエット、佇まいがルーシー・リー
その人の静謐さを思わせる展示になっている。

ゴールド釉薬の掻き落としもあるがルーシー・リー後期の
ウィーンを思わせる絢爛の色合いは少ない。同時に展示されている
ジェニファー・リーの器とのハーモニーを意図したのだろうか。

ボタンのコレクションはすごい。これまで知られたデザインの他
ガラスや大振りのコート用と思われるものなど600点ほども
あるのではないだろうか。

エルンスト・ガンペールの木の器を含む三宅一生氏の審美眼を
集めた展示と言えるだろう。1989年の展覧会でのカタログも
復刻版が発売されていた。

デザインサイトのウェブページのサムネイルがルーシー・リーの
ボタンになっていてしゃれている。

Tuesday, July 29, 2008

2008年のアルビオンミューズ


2008年6月現在のアルビオンミューズ。ルーシー・リーが
亡くなる1995年まで住んでいたアルビオンミューズのアパート。
ハイドパークから一本入った静かな住宅街にひっそりと建つ。 

アルビオンミューズは石畳の美しい小路だが、ルーシー・リーの
アパートはかつての面影はない。伸ばすに任せた植木に覆われて
今や熱帯雨林のようになっている。

運が良ければ2階上の壁に掛けられた
「ここにかつてルーシー・リーが住む」
というプレートを見ることが出来る(この写真では逆光でよく写って
いないが)。というのは、「先週まで見えなかったよ。今は
見えるからそのまわりだけ(ツタを)刈ったのだろう」と誰かが
言っていたから。

かつてハンス・コパーやルーシー・リーを訪ねた人たちが鳴らした
ドアベルは今バークレイコレクションになっているし、当時を
知る人が訪ねたら様変わりにびっくりすることだろう。

棟続きの隣の部屋(その名もTree Houseとドアにある)に住む、
元ミュージシャンという男性がこの棟のアパートを全部買ったと
ななめ向かいの住人が言っていた。彼らはルーシー・リーが健在
だったときからの友人夫婦で、この「植木の手入れをしない」
元ミュージシャンにひどく腹をたてていた。しかも夜は樹に
とりつけられたクリスマス飾りのような電気が点滅するのだ。

知らない人が入り込むと、何か用事かと慇懃に尋ねられるような
(プライベートな住宅地なので当然だが)、小さな袋小路で
そうそう行かれる場所ではないだけにプレートが良く撮れて
いないのが残念だ。
「見えるときと見えないとき」があると聞けばさらに残念なことだ。

Monday, January 21, 2008

ルーシー・リーのボタン


「ウィーンからきたボタン作り」とバーナード・リーチはルーシー・リーを
友人に紹介していました。

1940年代初め、ルーシー・リーはアクセサリーやボタンを作るビミニ
工房を主宰していたフリッツ・ランプルに勧められて陶器でボタン作りを
していたのです。その頃ルーシー・リーは厚く重い陶器を作らなくてはいけない、
とバーナードリーチにアドバイスされて自分の作品に自信がもてなくなって
いました。

そのような時に生活の為に始めたボタン作りはウィーンで学んだ釉薬の知識を
いかせるものでもあったのです。色とりどりのボタンはオートクチュールの
ファッション業界にとって大きな魅力になりました。戦時中「朝も昼も夜も
キャベツ!」と語ったルーシー・リーにとってボタン作りは生活を保障して
くれる仕事でした。

この時期大量に作られたボタンは後に三宅一生氏のファッションショーにも
使われました。ルーシー・リーはまた、ボタンだけでなく傘の取っ手やベルトの
バックル、ブローチなどのアクセサリーも陶器で作っています。

戦後、ルーシー・リーの「ボタン工場」が再開されたとき、工房は何人もの
人が働く活気ある場所になっていました。

そんな1946年のある日、仕事を求めて一人の青年がアルビオン・ミューズの
工房を訪れました。

後にルーシー・リーの無二のパートナーとなるハンス・コパーです。
この時ルーシー・リー44才、ハンス・コパーは26才でした。

Wednesday, December 12, 2007

ルーシー・リーが美術の教科書に!


                ルーシー・リー「緑釉の鉢」1976年作

20年度の高校教科書(光村図書美術2)にルーシー・リーが紹介されます!
作品は杉山コレクションの「緑釉の鉢」。1976年作、ルーシー・リーおなじみの、
透明感あふれる緑にゴールドの口縁。ゴールドが緑の釉薬にとけ込んで
流れています。

教科書に載るまでにルーシー・リーが広く認識されたということは、
なんともすばらしく、陶芸界の大きなニュースでしょう。ルーシー・リー展
の企画を美術館に持ち歩き断られた日々が隔世の感があります。

作家の生まれた国で紹介するという決まりがあるとかで、ルーシー・リーは
オーストリア生まれと記載されますが、ルーシー・リーにとってはさぞ
不本意なことでしょう。自分はイギリスに認められた、受け入れられた、と
誇りに思い、生存中は母国オーストリアでの展覧会開催も拒絶していたの
ですから。

若い世代をも魅了するルーシー・リーの作品が教科書に載ることによって
さらに多くの人たちに語られることでしょう。2009年には日本で初めての
ハンス・コパー展が大規模に開催される予定です。また新たな
ルーシー・リー展も企画されているようです。

Saturday, November 03, 2007

ハンス・コパーの花生けの秘密

       ハンス・コパーの黒い花生け c.1974 正面から見たところ

                 裏側から見たところ、HCの印章はのびやかですばらしいデザインです。

              斜め横からみたところ
                    真上からみた花生けの内側


ハンス・コパーの器の中をのぞいたことがあるでしょうか。

ハンス・コパーの花生けには秘密があります。といっても内部の構造ですが。
ハンス・コパーは自分の器が使われるように、と望んでいました。

いかにも使えそうにない彫刻的な形をした作品も多いのですが、それでも
使って欲しい、という言葉通りその花生けの中には細やかな気遣いがあります。
お花をする人はすぐ気がつくと思いますが、コパーの花生けには茎をささえる
ために内側にも器が作られているのです。

内部の広い花生けでは生けた花の茎が中でばらばらになってしまいます。
それを押さえるための内側の器は外側の器と一体になり、二重構造に
作られています。

また外側の器自体もカップの中にうまった状態になっています。複雑な形なので
どうやってこれが作られたのか興味深いところです。

ルーシー・リーとウェッジウッド - 2



1963年、ルーシー・リーはウェッジウッドから依頼されてジャスパーウェアを
制作しました。プロトタイプは全部でカップ18点、ソーサー3点の合計21点が
残されています。

9月投稿の写真は2002年5月-9月に開催されたカナダトロントの
がーディナー美術館での展示ですが、上の写真はトニー・バークス著の
「ルーシー・リー」に掲載されているものです。

フォルムも掻き落とし文様もいかにもルーシー・リーそのもの。デザインが
美しく、何故ウェッジウッドでの量産が実現しなかったか大きな謎です。

Friday, September 14, 2007

ルーシー・リーとウェッジウッド


ルーシー・リーは生涯に一度だけ陶器のデザインを手がけたことがありました。
ウェッジウッドがルーシー・リーにコーヒーカップとソーサーのデザインを
依頼したのです。

ウェッジウッドから送られてきた粘土を使ってルーシーがデザインしたのは
この写真を含む20数点のプロトタイプでした。いかにもルーシー・リーらしい
シンプルで美しい形です。

実際は写真から受ける印象より小振りで、手のひらにすっぽりと包み込むことが
できるほど、薄い繊細な器です。結局理由が明らかでないままに実現することは
ありませんでした。ルーシーはこの出来事について言葉を残していませんが、
いくばくかのお金を受け取る替わりに、作品をすべて戻して欲しいと言い、
これらのプロトタイプを最後まで工房に残していました。

ハンス・コパーは、コーヒーポットやミルクジャーなど、セットすべてを
作ってからプレゼンテーションしたほうが良かったかもしれない、と語ったと
伝えられていますがこの作品が生産化されなかったことはデザイン界にとって
大きな損失であった、これが実現されていたら20世紀のデザインを大きく
変えていただろう、と「ルーシー・リー」の著者トニー・バークスは
書いています。

ルーシー・リーが1995年に亡くなったあと、これらはオークションに
かけられましたが、管財人たちの意向で作品はばらばらになることなく、
ノーリッチにあるセインズベリーセンターにまとめて納められました。

Sunday, August 12, 2007

ハンス・コパーとルース・ダックワース

7月の初めにイギリス、ウェールズ地方のアベイストウィスというところで
セラミックフェスティバルが開かれました。アメリカのNCECA(エヌシーカ、全米
陶芸教育会議)とよばれる催しに似た陶芸家の一大イベントです。

そこにアメリカからルース・ダックワースが招待されレクチャーを
することになっていた、と誰もが信じて楽しみにしていたのですが、
空港まで行って出国できなかったというのです。3週間前にパスポートが
切れていてそれに気がつかなかったことが原因でした。

そこで彼女のエイジェントであるシーア女史が変わってレクチャーを行い、
その最後にルース・ダックワースがアメリカから電話に加わり
質問に答えることになりました。

ルース・ダックワースは現在88才ですが、コミッションをまだ沢山
かかえ、作陶を続けています。
会場から「貴女の一番好きな陶芸家は誰ですか?」と質問があがりました。

「私の好きな陶芸家?もちろんハンス・コパーよ。彼はすばらしい
アーティストでした。ハンス・コパーの作品は本当に美しい。
すばらしい作品を創るすばらしい人でしたよ」

ルース・ダックワースはルーシー・リーやハンス・コパーと同じように、
ナチスを逃れてイギリスに亡命した一人でした。ドイツのハンブルグにユダヤ人
として生まれ育ちましたが、ホロコーストの困難な時代でした。

「親友が突然、口をきいてくれなくなりました、彼女はナチスでした」

17才の時家族でイギリスに亡命、リバプールアートスクールに入ります。
面接の時、校長に何を勉強したいか聞かれ、
「デッサン、絵画、彫刻と答えたらその中から選ばないといけないと
言われました。だから、何故?ミケランジェロは全部を学んだでしょう、と
言ったの。私はとても未熟な17才でした」

1960年代なかば、ハンス・コパーがアメリカのシカゴ大学から陶芸を
教えて欲しいと依頼を受けました。しかしハンスは断り、その替わりに
ルース・ダックワースが招待されたのです。それ以降ダックワースは
アメリカで作陶を続けています。

ダックワースはルーシー・リーよりハンス・コパーの作品に、より近い物を
感じる、と語っていますが、「創ることよりほかにおもしろいと思うことは
ない」という言葉に、88才まで作陶を続けたルーシー・リーの姿勢が
重なります。

Thursday, July 19, 2007

ハンス・コパーの燭台





ロンドンから電車で約2時間北にいくとコベントリーという街があります。
16世紀に建てられた大聖堂は第二次大戦の爆撃によって1940年11月14日に
破壊されてしまいました。

外壁だけ残されていますが、廃墟に隣接して
バージル・スペンスによって設計されたのが現在のコベントリー大聖堂です。
ハンス・コパーはバージル・スペンスに委託を受けて燭台を制作しました。
今も祭壇の両脇に3本ずつ、設置されています。
いかにもハンスらしいシンプルな、それでいて表情豊かな、美しい燭台です。

また、チャペルの一つに、黒い燭台も2点、置かれています。これは以前
持ち運びして実際にミサに使用していたそうですが、ハンス・コパーの
作品があまりに高価になったために、今はテーブルにとりつけてあるとの
ことです。

また裏手にまわるとコンクリートで作られた大きな花生けがあります。
これもハンス・コパーの作品です。ハンスはこれに実際に花を生けて欲しい
と伝えたそうですが、大きすぎるために、今ではフラワーフェスティバルなどの
機会に使われるだけだそうです。
7個残されており、庭で鉢の替わりに使われています。

sora記