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2002年日本での展覧会


滋賀県立陶芸の森 陶芸館

カナダでの展覧会に一ヶ月先立つ2002年4月、信楽の陶芸の森陶芸美術館
「生誕100年記念ルーシー・リー展〜静寂の美へ」が開催されました。

1989年に東京草月会館で三宅一生氏によって開催されたルーシー・リー展以来
ルーシー・リーを紹介した大きな展覧会は13年ぶりのことです。この信楽での
展覧会は芸術新潮をはじめとする美術誌、新聞各紙で大きくとりあげられ話題を
よびました。

この展覧会は同年7月、愛媛県松山市のミウラート・ヴィレッジ三浦美術館
翌年1月に東京のニューオータニ美術館と3館を巡回して大きな成功を
納めました。

動員数やカタログの販売数はもちろんのこと、
「待ちに待って訪れた展覧会」「心を洗われる作品群、、、来て良かった」
「作品を見て感動した、ルーシー・リーという一人の作家がこうやって作品を
作り続けたことに勇気付けられた」「作品の前から動くことが出来なかった、、」
などと多くの感想が寄せられ人気の大きさを実感させられました。

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ルーシー・リーの釉薬レシピ

Rie Archive from Crafts Study Center Vads ルーシー・リーの釉薬のレシピが昨今いろいろなところで紹介されている。それらには『生誕 100年記念 ルーシー・リー展 静寂の美へ』(2002年、展覧会は陶芸の森、ミウラート美術館、ニューオータニ美術館を巡回)の展覧会カタログに掲載されている、ナイジェル・ウッド氏の特別寄稿「ルーシー・リーの素材と技法」を参照しているものが少なくない。彼が、ルーシー・リーの釉薬ノートを最初に精査した研究者のひとりだからだ。 ナイジェル・ウッド氏はイギリスのオックスフォード大学首席客員研究員で中国陶磁器の釉薬についての研究における世界的権威だ。上に紹介した図録ではルーシー・リーの残した釉薬ノートを研究して詳細に分析、その技法やレシピを、その図録で紹介している。 ウッド氏は、ルーシー・リーの最大の功績のひとつは電気窯であれほどの豊かな作品を創り出したことにある、と述べている。これは当時、バナード・リーチを始めとするストーンウェアの作家たちの間に、炎による還元焼成でなければストーンウェアの焼成はあり得ないといった共通の認識があったためだ。 リーチは電気窯での焼成を「死んだ火、死んだ焼成」と言っていたほど燃焼窯による還元焼成にこだわった。ところがウッド氏は、   「 ルーシー・リーの作品は酸化焼成である。言い換えれば、彼女は   電気窯の澄んだ 酸化雰囲気で作品を焼成しているのだ。ルーシー・リーが   初めてストーンウェアを作り出したのは、1948年から1949年にかけての   冬であったが、当時もっともストーンウェアに取り組んでいた陶芸家たちは、   たいてい薪窯やガス窯、石炭や石油の窯など、直火の窯で還元焼成していた。   炎の出る燃料を使った還元焼成の方が、窯の中がわずかに煙った還元雰囲   気味になり、粘土素材と釉薬の両方に含まれている酸化した鉄分が作品に   豊かな表情をもたらすからだ・・・・・・・(略)・・・・・   ルーシー・リーは、このような酸化鉄には関心をもたず、他の着色剤や   乳白剤、たとえば二酸化マンガン、ウラン酸ナトリウム、酸化スズ、   酸化亜鉛などを好んで使用した。   ルーシー・リー

バーナード・リーチとルーシー・リー

1952年ダーティントン会議でアルティガスとリーチとルーシー・リー トニー・バークス著「ルーシー・リー」より バーナード・リーチは初めルーシー・リーの作品を認めなかった。 オーストリアですでに数々の展覧会で入賞し新進の陶芸家 として活躍していたルーシー・リーの作品は最初イギリスでは 受け入れられなかった。 バーナード・リーチはルーシー・リーの作品を 「薄過ぎ」「釉薬は厚過ぎ」「人間らしさがない」と批判し ルーシー・リーのことを「ウィーンから来たボタン作り」と 人に紹介していた。 いくらルーシー・リーが、バーナード・リーチなくしては 戦後のあの時期、イギリスの陶芸家は生き延びることができなかった と感謝の言葉を述べていても、イギリスの陶芸界で「絶対」の 権威を誇るリーチの批判がどれほどルーシー・リーを傷つけただろうと 思わずにいられない。 しかし後にバーナード・リーチは『東と西を超えて』 (日本経済新聞社1978年)の中で 次のように述べている(以下福田隆太郎訳)。   この時期にロンドンからわれわれに会いに   やって来た女性の陶芸家がもう一人いる。   ルーシー・リーである。   彼女は非常に感受性の鋭いオーストリア人の若い   芸術家であり、すでにウィーンでは名声を博して   いたが、イギリスに落ち着く場所を見つけようと   していた。戦争に突入する直前彼女が私に会いに   来たダーティントンで、私が彼女をやっつけて、   進路を変えさせたと彼女が言ったにもかかわらず、   彼女はふつうの意味での私の弟子とは   ならなかったし、彼女の陶器も、私の影響を   どこにも見せていなかった。私はヘンリー・トンクス   の手法をいくらか採り入れ、影響を受け、そこから   学び取っていったに違いない。また、ウィーンの美術や   工芸に対し、拭い難い偏見もあったのかもしれない。 ヘンリー・トンクスの言及とのつながりがここではよく わからないが、リーチは、ルーシー・リーの作品に対して 「ウィーンの美術や工芸に関する 偏見があったかもしれない」と認めている。 またこれに続いて   彼女はとても腕の良い陶芸家であったし、今もなお   そうである。今日、ルーシー・リーの陶器は偉大な、   そして永続的な、優れた女流美術家としての優美さを   示していると私は思っている。彼女の作品の

ルーシー・リーのボタン

「ウィーンからきたボタン作り」とバーナード・リーチはルーシー・リーを 友人に紹介していました。 1940年代初め、ルーシー・リーはアクセサリーやボタンを作るビミニ 工房を主宰していたフリッツ・ランプルに勧められて陶器でボタン作りを していたのです。その頃ルーシー・リーは厚く重い陶器を作らなくてはいけない、 とバーナードリーチにアドバイスされて自分の作品に自信がもてなくなって いました。 そのような時に生活の為に始めたボタン作りはウィーンで学んだ釉薬の知識を いかせるものでもあったのです。色とりどりのボタンはオートクチュールの ファッション業界にとって大きな魅力になりました。戦時中「朝も昼も夜も キャベツ!」と語ったルーシー・リーにとってボタン作りは生活を保障して くれる仕事でした。 この時期大量に作られたボタンは後に三宅一生氏のファッションショーにも 使われました。ルーシー・リーはまた、ボタンだけでなく傘の取っ手やベルトの バックル、ブローチなどのアクセサリーも陶器で作っています。 戦後、ルーシー・リーの「ボタン工場」が再開されたとき、工房は何人もの 人が働く活気ある場所になっていました。 そんな1946年のある日、仕事を求めて一人の青年がアルビオン・ミューズの 工房を訪れました。 後にルーシー・リーの無二のパートナーとなるハンス・コパーです。 この時ルーシー・リー44才、ハンス・コパーは26才でした。