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国立新美術館 ルーシー・リー展

国立新美術館「ルーシー・リー展」カタログ表紙


東京国立近代美術館企画のルーシー・リー展が開催された。
国立新美術館でのルーシー・リー展オープンは雨にも
かかわらずごったがえすほど沢山の人だった。
会場を見るにもぞろぞろと行列を作って見てまわる。

先にウェッジウッドのカップ・アンド・ソーサーを見に行く。
淡い水色のジャスパー・ウェアのプロトタイプ21点。
リーもコパーもコーヒー飲みであったから、これくらい小さな
手のひらに入るようなカップを好んだのかもしれない。

ハンス・コパーもルーシー・リーも器にこだわった。
ルーシー・リーはくりかえし「私はポットを作るだけ」と
言い、BBCのフィルムはもちろんBBCラジオでも
「使う物を作る」と語っている。

コパーも「Art should function.」「Sculpture should function.」
と語ったと伝えられる。「芸術は機能すべき」ということだ。
花生けの中には枝が広がらないように支えるカップ(ステム・ホルダー)
が作られている。

その同じものをルーシー・リーの花生けにも見ることができる。
1950年代の作品でシリンダー形の花生けの中にもう一つ細い
シリンダーが入っている。マンガン釉薬のボディに白い
釉薬の口縁、そこにマンガンの細い線が象嵌されている。

50年代はハンス・コパーもまだアルビオン・ミューズの工房に
いたときなので二人で同じようなステム・ホルダー(枝の支え)
のある花生けを作っていたのは興味深い。使う作品を作る、という
明確な意図があったのだろう。

ただ、いかに作家自身が「使える器」とはいってもルーシー・リーの
80年代後半の器、またハンス・コパーのキクラデスに至る器たちは
とても実際の用に用いることは難しいだろう。もし自分の所蔵品
であれば、ちょっと花を生けてみたらどんな景色だろうと、ふと
思ってしまうけれど。

カタログはとても美しい。335ページ。いかにも高そうな高そうな
装丁だ。ピンクの象嵌の器をイメージした見返し、花布、しおりひも
が付いて品の良い華やかさだ。

個人的な趣味で言えばウェッジウッドのブルーの花布も
さぞすてきだったろうと思う。でも少し寂しくなってしまうだろうか。

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