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ハンス・コパーのもう一つの燭台


ハンス・コパーの有名な燭台はロンドンから2時間ほど北の
コベントリー大聖堂にある。2メートルを超える大なもので
今回のハンス・コパー展にそのマケットが展示されている。

あまり知られていないが、ハンス・コパーはもう一対の
燭台を作り、今はロンドン市内のセント・ステファン・ウォルブルック
教会にある。これは一度オークションにかけられ、それに反対
する人たちの抗議でオークションで落とされてからこの
教会に寄贈されたものだ。

燭台は現在工事のため教会の倉庫に保管されているがこの
写真は一点だけ倉庫から取り出して祭壇に飾って見せてくれた
ものだ。

なお、この祭壇はヘンリー・ムーアの作品。ヘンリー・ムーアの
「祭壇は教会の中心に、教会はロンドンの中心に」在るという考えの
もとに、祭壇は教会の奥まったところに位置するのではなく
明るい空間の中央に置かれ、祈る者はそのまわりにひざまづく。
何トンもあるトラバーチン大理石がゆるやかなカーブに削られ
コパーの黒いボリュームある燭台が映える。

Comments

Unknown said…
このような、印章を作られていたのですね。何も知らずに展示会に行って共感するものがあり、病気になられて早くに亡くなられているのが残念です。コベントリー大聖堂には行っているので、実物を見ているかもしれません。
私のブログにリンクをはらせていただきました。
ありがとうございます。

http://blogs.yahoo.co.jp/sukima_noriko
http://web.me.com/temporalidad_eterna/NORIKONAKAGAWA/Welcome.html
sora said…
すてきなブログにリンクをありがとうございます。コベントリー大聖堂に行っておられるのですね。きっとご覧になっていると思います!
たま said…
日曜美術館で、初めて知るハンス・コパーさんが取り上げられていて、検索してこちらのブログにたどり着きました。宝の山を見つけた気分です。
sora said…
「みんながハッピーに暮らせるように「変える」ささやかな企てを毎日実行しています。」のmihoさま。ブログを拝見しました。見方がいけないのか、一度しか投稿なさっておられないような、、、。心配しています。ハンス・コパーはあのような病気にかかっていましたが「絶望」してはいませんでしたよ。何もかも燃やすように、という言葉を残しはしても、私たちは彼の行き方と作品に今大きく心を揺さぶられています。mihoさんも私も。

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